エッセイ「江戸っ子の矜恃と謙遜」
「私は江戸っ子だから」という言葉には、どこか自慢が混じって聞こえることがある。まるで「江戸っ子には君らにはない粋な文化があるんだよ」と言わんばかりに、だ。しかしね、そんな文化は風土によってどこにでもあるものでしょう。
大阪には大阪で「浪速っ子気質」があるし、それは決して特別なものではないよ。「粋」や「いなせ」という言葉に置き換えているだけで、どの土地にも独自の誇りと美意識がある。
むしろ「江戸っ子だから」という言葉には、一種の言い訳めいた響きが含まれていないといけない。寿司屋の大将が使う「おあいそ」が「今日は愛想がなくて申し訳ございません」という謙譲を含んでいるのと同じようにね。
「江戸っ子だからこんな気質で申し訳ございません」
そういう含みを持たせたほうが、よほど粋というものなんです。
私自身は生粋の江戸っ子ではない。生まれは漁師町である。とはいえ江戸文化にふれて育った以上、その根にはそれらしい気質が流れているように思う。
せっかちで物に執着がない。待つのは嫌いだし「宵越しの金は持たない」とばかりに手元に金を溜め込まない。人生、いつ何があるかわからないからこそ、気前よく使うのが道理だと考えているんです。
もっとも、懐が痛いときですら、痩せ我慢で振る舞ってしまうこともある。そういうところは、受け継がないほうが良かったのかもしれないが。
こうした気質は、江戸という町の性質と密接に結びついている。
とにかく町人は忙しい。各地から荷が運び込まれ、納めや下ろしが絶えず行われていた。加えて火事の多い町であるから、焼けた家を建て直すなんてことも日常の一部だった。そんな環境で、のんびり構えていては話にならないんだよ。自然と気が急くようになるのも無理はない。
さらに江戸は、武士も町人も地方出身者が多く集まった土地だからね「金に執着しない」「痛い・熱いと言わない」といった分かりやすい痩せ我慢が、男同士の連帯感を生む共通言語として機能していた。そこには、田舎者には負けられないという意地もあったのさ。
結局のところ、「江戸っ子だから粋」なのではない。「粋な振る舞いをするから江戸っ子だ」と周囲に認められる。
この順序こそが、コミュニティの本質なんだよ。そして現代の東京もまた、人口の大半が地方からの流入者で構成された巨大な移住都市である。
だからこそ、「マウンティング」や「仲間意識の確認」といった形で、現代版の痩せ我慢が機能している側面は確かにあるのではないかな。
土地を愛すること自体は、まったく悪いことではない。ただね、それを鼻にかけた瞬間に、途端に無粋になる。江戸っ子を名乗るのであれば、そのあたりの機微こそ、忘れないようにしたいものだ。
了
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