ショートショート 「虫よけ」
深山幽谷の奥深く、ハイカーたちの間で「奇跡の谷」と呼ばれる秘境があった。その谷には、どんなに暑い夏でも蚊やアブがまったくいない。理由は、そこに自生する世にも奇妙な植物の存在だった。
見た目は細長い竹筒のようだが、先端に小さなノズルがついている。人間が近づくと、センサーのような葉が体温を察知し、シュッと霧状になった清涼感の強い忌避成分を吹きかける。それはまさに「山に自生する虫よけスプレー」だった。
野心家の男は、その一帯にある植物を根こそぎ都内の家に持ち帰ることにした。
「これを庭で栽培して増やせば、大儲けできるぞ」
男は山を降り、自宅に帰ると庭にそれを植えた。毎日水をやり、肥料を与え、過保護なほどに育てた。
数ヶ月後、植物は男の背丈を超えるほどに成長した。変化したメタリックな外観が並ぶ。まるで市販化された工業製品だ。田舎者だったスプレー植物は、都会の環境にすっかり馴染んだようだ。
男は満足そうに微笑み、ノズルの前に立つと、スプレー達が一斉に忌避剤を噴射した。天に向けて撒かれた致死量の忌避剤が降り注ぐ。男は浴びた瞬間、その違和感に気が付いた。
甘ったるい香水のような忌避剤には、かつての清涼感は一切ない。すっかり都会っ子となってしまったスプレーは見た目だけでなく、その中身も変わってしまっていたのだ。
「これじゃあ売れないかもな」
べたつく身体を洗いに男が玄関へ向かおうとしたとき、敷地の外から声をかけられた。
「おはようございます。いい天気ですねぇ」
「あー、はい」
「洗濯物がよく乾きそうでよかった」
「そう……ですね」
「これから、お出かけですか」
「いえ」
「そう。私は今、犬の散歩中でねぇ」
「可愛いですね」
「ペロっていうの」
こんな中身の無いラリーが二分ほど続いたのち解放された男は、靴を脱いでバスタオルを探す間ずっと、先程のありえない体験を振り返った。この冷え切った都会で、知らない人間に突然声を掛けられるなんて。
浴び終わった男は、浴室から出てドライヤーで髪を乾かす間もずっと考えた。そのうちに、一つの結論に行きついた。
原因はあのスプレーにある。都会に染まってしまった影響で、あれの出した成分が変化して、フェロモン的な誘引剤を浴びた結果、引き寄せられるように赤の他人が声を掛けてきたのではないか。釈然としない男のサッパリとしたはずの身体には、ムンムンとした匂いが残り続けていた。
◇
しばらく経っても、例の誘引剤の効果は絶大だった。何度風呂に入ろうが、洗濯機を回そうが匂いは消えず、男の周りには公私に関わらず、絶えず人が寄り付くようになった。あのスプレーは都会の冷たさに適応して「無視除け」成分を生成するようになってしまったのだ。
うんざりした男は今ある生活の全てを投げ捨てて、例の奇跡の谷の奥深くで一切人と関わらないように暮らした。
「無視」がいい話だった、というわけだ。
(了)
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