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科学で証明できないものを、私はまだ信じていたい

まず、大前提として、科学はすごい、と思っています。
科学を否定したい記事ではありません。

かつてわからなかったことや、「神の領域」とされていたことが、ひとつひとつ解明されていく。

病気の原因がわかり、宇宙の成り立ちが見え、人間の脳の働きが可視化されていく。
その積み重ねが、今の私たちの便利な生活を支えているのは間違いありません。

スマートフォンだって、パソコンだって、インターネットだって、科学が発展したから出来たものです。

でも、ふとこんなことを考えることがあります。

もし、科学で証明できるものだけを信じるようにしたら、世界はどうなるだろう?と。

うまく言葉にできないけれど、その感覚を一言で表すなら——「寂しい」。
これが一番最適な言葉かな、と思いました。

ただ、証明できないものにも、きっと何かが宿っているのではないか。
そんな問いを、AI時代の今だからこそ、立ててみたいのです。

誰かの悩みを聞いたとき、「辛かったよね……」と何だかしんみりする気持ち。
映画のワンシーンで、思いがけず涙がこぼれる瞬間。
そういった体験を、あなたも一度は経験したことがあると思います。

これは「共感」と呼ばれる感覚です。

そしてこの共感、脳科学的に説明しようとすると、「ミラーニューロンの働きによるものだ」という話になります。
ミラーニューロンとは、他者の感情や動作を見たとき、自分が同じ体験をしているかのように反応する神経細胞です。

それが共感の正体。

決して、間違ってはいないのだと思います。
でも、その説明を聞いたとき、少し寂しくなりませんか?

自分の心で感じているものが、ニューロンというよく知らない用語で説明されてしまう。
体験そのものが、記号に変換されてしまうような感じ。
説明された瞬間に、何か大切なものが逃げていくような気がするのです。

もし、「あなたの考えていること、感じていることは、突き詰めれば電気信号や化学反応の組み合わせで表現できる」と言われたとしたら、どうでしょう?
理屈ではそうなのかもしれない。でもそこにも、やはり寂しさを感じてしまう。

自分の意思や思考が、数式や電子式に落とし込まれてしまったとき、「なら私とは何なのか?」という問いが、静かに浮かび上がってくるような気がします。

哲学にはクオリアという概念があります。
たとえば赤い色を見たときの「赤さの感じ」。
でも、私が感じる「赤のクオリア」と、みなさんが感じる「赤のクオリア」が同じである証明は出来ません。

科学は現象を記述することはできても、実際に体験した感覚そのものには、なかなか届かない。

科学的な説明は、体験という土地がどこにあるのかを指し示す地図にはなれます。とても精巧で、とても役に立つ。
でも地図を眺めることと、実際にその土地に立つことは、やはり違うのだと思います。

そして、科学的に解明されたものには、ある共通の運命があるのではないかと思うのです。

それは、「再現できるようになる」ということです。

仕組みがわかれば、同じものを作ることができます。

例えば、養殖。

天然の魚がなぜ美味しいのか、その要因を科学的に分析し、同じ環境を人工的に再現しようとする。
完全な再現は難しいとしても、技術は着実に近づいていく。
そしてある程度まで再現できてしまったとき、「天然である必要」は少しずつ薄れていきます。

職人の技術も同じです。
長年の経験と勘で成り立っていた仕事が、工程として分解され、数値化され、機械に置き換えられていく。
それ自体は、社会の効率化という意味では正しい進化なのかもしれません。

でもそこに、やはり寂しさを感じるのです。

天然の魚には、養殖では再現しきれない何かがあるんじゃないか。
職人の手仕事には、機械では出せない何かがあるんじゃないか。
その「何か」は科学的に証明しにくいからこそ、代替品が生まれずに残り続ける。

説明できないものほど、代替されにくいのかもしれません。

AI時代の今、これはとても切実な話でもあります。
人間の仕事や能力のうち、言語化・数値化できるものから順番にAIに置き換えられていく。
論理的な思考、情報の整理、パターンの認識。
これらはすでに、AIがかなりの精度でこなせるようになっています。

では、言語化できない部分はどうでしょうか?

誰かと目が合ったときの安心感。
長年連れ添った人の、言葉にならない気持ちを察する感覚。
その場の空気を読んで、あえて何も言わないという選択。

「証明できないもの」は弱さではなく、むしろ人間が人間であり続けるための、最後の砦なのかもしれません。

さらに、少し視点を変えてみたいと思います。

ここまで、科学で説明できないものの話をしてきました。
でも実は、科学そのものも、「説明できないもの」なしには存在できないのです。

考えてみると、当たり前のことかもしれません。

すべてが解明されてしまったら、新しい発見も、技術の進歩も、そこで止まってしまいます。
科学が前に進み続けられるのは、まだわからないことがあるからです。
未解明の謎があるから、研究者は問いを立て、実験を重ね、新しい地平を切り開いていく。

科学は「わからないもの」を燃料にして動いている、とも言えます。

もうひとつ、面白い話もあって。

科学が進めば進むほど、「わからないこと」が増えていくこともあります。

ひとつの謎が解明されると、その先に新しい謎が生まれる。
宇宙の成り立ちを探れば探るほど、ダークマターやダークエネルギーという、より深い謎に突き当たる。
量子力学が発展すればするほど、「そもそも現実とは何か」という根本的な問いに戻ってくる。
解明の光を当てるほど、その周囲の影が濃くなっていく。

知れば知るほど、知らないことが見えてくる。

ここで思い出すのが、哲学という営みです。
科学が「どのように」を解明するとすれば、哲学はその前に自由に問いを立てます。
科学が地図を描く前に、哲学はその土地が存在するかどうかを問う。

これはAIにも通じる話だと思います。
AIはすでにある問いに対して、驚くほど精度の高い答えを出すことができます。
でも「そもそもこの問いはあるのか」「この問いの先に何があるのか」という、問い自体を生み出す力は、まだ人間の側にある。

科学が証明できないものを燃料にして進むように、人間もまた、答えの出ない問いを抱えることで、前に進んでいるのかもしれません。

「わからない」は、弱さではなく、原動力なのだと思います。

ここで、少し不思議な問いを立ててみます。

もし明日、完全に自分と同じクローンが目の前に現れたとしたら、あなたはその存在を「自分自身」と思えるでしょうか?

おそらく、思えないと思います。

DNAが同じ、声も同じ、記憶も同じ。
どこをとっても自分と区別がつかない存在であっても、「自分そのものだ」とは感じられない。もしかしたら仲良くなれるかもしれない。
「自分に似た存在」「自分の分身」とは思えるかもしれない。でも「自分自身だ」とは、たぶん思えない。

この感覚は、どこから来るのでしょう。

一つには、身体の連続性があると思います。
私たちが「自分」だと感じられるのは、昨日も一昨日も、ずっと同じ身体の中に「いた」という感覚があるからです。
目が覚めたとき、昨日と同じ自分がここにいる、と思えるのは、その連続した時間の積み重ねがあるから。
クローンには、その連続性がない。

生まれた瞬間から、別の時間を歩みはじめる別の存在です。

「自分である」という感覚は、DNAでも、脳の構造でも、記憶のデータでも、完全には説明しきれない何かの上に成り立っているのだと、信じています。

AIの話に引き寄せると、これはとても興味深い問いになります。

「自分とは何か」という問いは、哲学が何千年も抱えてきた問いです。
科学が進んでも、この問いはなくならない。
むしろAIが登場したことで、この問いはより鮮明に、より切実になってきている気がします。

答えが出ないからこそ、人間はずっとこの問いと向き合い続けてきた。
そしてその「向き合い続ける」こと自体が、すでに人間らしさの一つなのかもしれません。

科学で証明できるものだけを信じると、世界はきっと「正確」になるんです。

曖昧なものが減り、説明のつかないことが少なくなり、効率よく、無駄なく、整理された世界になっていく。
それはそれで、一つの理想の形かもしれません。

でも、そこにはやっぱり、何かが足りない気がするのです。

共感をミラーニューロンで説明したときの、あの寂しさ。
思考や意思が数式に還元されてしまうときの、あの違和感。
クローンを前にしても「自分だ」とは思えない、あの不思議な感覚。
科学の言葉では届かない、でも確かにそこにある体験の層。

それらを「証明できないから意味がない」「科学で証明できないから存在しない」と突き放してしまったとき、世界は少し、寂しくなると思うのです。

科学自体も、わからないものを燃料にして進んでいきます。
未解明の謎があるから問いが生まれ、問いがあるから探求が続く。
証明できないものは、弱さではなく、前に進むための原動力でもある。

AI時代の今、この感覚はより大切になってくると思っています。

AIは、説明できるものを驚くほど上手に扱います。
データを整理し、パターンを読み、論理を組み立てる。
でも、説明できないものの前では、まだ静かに立ち止まっています。
共感の寂しさを感じることも、自己という謎に戸惑うことも、たぶんまだできない。

だとしたら、証明できないものを「わからないまま大切にする」という姿勢こそが、AI時代に人間が手放してはいけないものの一つなのかもしれません。

答えを出さなくていい問いがある。
説明しなくていい感覚がある。
そのままにしておくことで、初めて感じられるものがある。

科学で証明できないものを、私はまだ信じていたい。

そう思いながら、この記事を書きました。

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