300兆桁計算しても意味がない? 円周率の意外な真実と哲学の話
円周率はいつか割り切れるのだろうか?とふと思いました。
3.14159265……と、どこまでも続くあの数字。小学校で習って以来、なんとなく「いつか終わるんじゃないか」という淡い期待を持ち続けていた方は、私だけではないはずです。
調べてみると、現在の最新記録では円周率は300兆桁まで計算されているそうです。2025年5月、カナダのLinus Media Groupと日本のキオクシアが協力し、192コアのCPUと2.2ペタバイトのSSDを使って、225日間かけて達成したギネス記録です。
……225日間。ノンストップで。
これだけの計算能力を人類が注ぎ込んでいるのだから、そろそろ「割り切れました」という報告が来てもおかしくないのではないか。AIの登場で計算速度も上がっているだろうし——そんなことをぼんやり考えながら、私はAIに聞いてみました。
返ってきた答えは、予想の斜め上をいくものでした。
割り切れるかどうかは、とっくの昔に答えが出ている。
1761年。今から260年以上前に、ドイツの数学者ランベルトによって「円周率は永遠に割り切れない」ことが証明されていたのです。
300兆桁の計算は、割り切れる日を探しているわけではありませんでした。
まったく別の目的のために行われていた——。
ではランベルトはどうやって「円周率が割り切れない」ということを証明したのか。
使ったのは「背理法」という論法だそうです。
背理法とは、「もし〇〇だとしたら、矛盾が起きる。だから〇〇ではない」という考え方です。
ミステリーのアリバイ崩しに似ている、と思いました。
「もし犯人がAさんなら、現場にいたはず。でもAさんはその時間ハワイにいた。矛盾する。だからAさんは犯人じゃない」——あの構造です。
ランベルトはこれを円周率に応用しました。「もし円周率が分数で表せるなら、この式の結果がありえない値になってしまう。矛盾する。だから円周率は分数で表せない」と。
数式の中身は正直、数学が苦手な私には追いきれませんでしたが、意味だけはわかりました。
この証明が行われた1761年、円周率はまだ数十桁しか計算されていなかったみたいです。
数兆桁に及ぶ膨大な計算などすることなく、論理だけで答えを出してしまったわけです。
AIに聞いてこの話を知ったとき、私は「本当かな?」とすぐに裏を取りたくなりました。
Wikipediaで「円周率の無理性の証明」を検索してみると、確かにページは存在しました。
ただ——開いて、1つ何かの項目を読もうと思った瞬間に数式の嵐が押し寄せてきて、「うわぁあ!数字!わかんない!」と、ブラウザを閉じたくなりました。
数学が苦手な人間には、あの画面はなかなかの威圧感です。
でも一次情報にあたったことは無駄ではありませんでした。
「確かにそういうページが存在する」
「証明が複数あるらしい」
「1761年という年代は合っている」——そのくらいは確認できます。
読み解けない部分はAIに頼みました。「数学が苦手な人でもわかるように、言葉だけで説明してください」と。
すると背理法の話が出てきて、アリバイ崩しのたとえが出てきて、ようやく構造が見えてきました。
これはAIの使い方として、案外大事なパターンだと思っています。
「AIに全部調べさせる」ではなく、「自分で一次情報を調べて、読めない部分だけAIに翻訳させる」という流れです。
AIが自信満々に間違えることは珍しくないので、一次情報を完全にすっ飛ばしてそのまま記事に書いたりしてしまうのはリスクがあります。
でも専門的すぎて読めない壁に当たったとき、AIを「翻訳者」として使うのはとても有効でした。
さて、ここからが私が一番驚いた話です。
ランベルトが証明したのは1761年。でもWikipediaのページにはこんな記述がありました。
円周率が無理数であることは、紀元前4世紀のアリストテレスがすでに予想していた、と。
証明されたのは2000年以上後のことである、とも。
少し立ち止まって考えてみてください。
紀元前4世紀といえば、今から約2400年前です。
近代数学の道具が何ひとつ存在しない時代に、アリストテレスは「円周率は割り切れないのではないか」と予想していた。
そしてその予想を証明するための道具が揃うまで、人類は2000年以上待つことになりました。
哲学は問いを立てるだけでいい学問です。
証明しなくていい。答えを出さなくていい。
だから何千年も先に向けた問いを、道具が存在しない時代に放流することができる。
一方で数学や科学は、証明できる道具が揃うまで先に進めません。
どれだけ鋭い予想があっても、論理的に示せるまでは「証明」にならない。
だから必然的に、哲学の後を追いかける形になります。
この構図は、円周率だけの話ではありません。
デカルトが17世紀に問いかけた「私は考える、ゆえに存在する」は、意識とは何かという問いであり、いま認知科学や脳科学がまだ格闘しているテーマのようです。
ヒュームが18世紀に指摘した「因果関係は実は観察できない」という話は、現代のAI研究における「相関と因果は違う」という最前線の課題に直結しているらしいです。
哲学は何千年も前にすでに問いを放流していて、科学がようやくその問いに追いついてきている——そういう構図が、あちこちに見えてきます。
また、他には「機械は考えられるのか」という問いも、哲学が先に立てたものです。
チューリングが1950年に定式化しましたが、その背景には何世紀にもわたる「心とは何か」「知性とは何か」という哲学的な問いの蓄積があります。
そしていま、AIという道具がようやく生まれたことで、その問いが証明の土俵に乗り始めました。でもまだ答えは出ていない。
おそらく哲学は、AIが答えを出す前に、すでに次の問いを放流しています。
どこか誰も追いつけない場所で、また2000年後に証明されるような予想を、静かに立て続けているのだと思います。
円周率が割り切れるかどうか気になって調べ始めた話が、気づけばそんなところへ辿り着きました。
素朴な疑問について調べる事は、思わぬ場所へ連れて行ってくれるものです。
