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無口な祖父が、教えてくれたこと——姿で伝わる、いのちへの向き合い方

「いただきます」を、いつのまにか口先だけで言っていないか——。多くを語らず、その姿で教えを伝えてくれた祖父を思い出しながら、いのちと願いについて綴る、小さな法話です。

今日、七月十日は、「なっ・とう」の語呂合わせで、納豆の日だそうです。

炊きたてのご飯に、糸を引く納豆。さらさらとかき込んで——

そんな朝、ふと思い出すのが、亡き祖父のことです。

祖父は、無口な人でした。声を荒らげたところを、見たことがありません。
また、ことさらに教えを言葉で語る人では、ありませんでした。

けれど、いまにして思えば、祖父は、語るかわりに、その姿で、たしかに何かを伝えていました。

食事のときも、そうです。ながら食事は、けっしてしない。膳の前に座れば背筋をのばし、静かに手を合わせ、頭を下げる。その姿に、家じゅうが、自然と居ずまいを正していました。

父は、プロ野球の中継が何よりの楽しみでした。巨人(ジャイアンツ)の試合ともなれば、どこか我を忘れてしまうような・・・。

それでも、父が食事どきにTV中継をつけようとすると——祖父は、いつものように、ただ静かに膳へ向き直り、手を合わせるだけ。何も言わない。その後ろ姿を見て、父もいつのまにかテレビを消し、箸をとっていました。

言葉ではなく、姿。

「いのちを、ついでにいただいてはいけない」。叱るでも、説くでもなく、ただ振る舞いで、祖父はそれを伝えていたのです。

浄土真宗では、私を教えへ導いてくださる方を、善知識といいます。立派な言葉を持つ人とはかぎりません。多くを語らず、その後ろ姿で伝えてくださる方もある。私にとっての祖父は、まさにそういう人でした。

「いただきます」とは、何を「いただいて」いるのか。

ご飯の一粒。豆の一粒。ここへ届くまでに、数えきれない手が重なり、そして米も豆も、もとは一つのいのちでした。私は、他のいのちをいただかなければ、一日も生きてはいけない身です。

私は、生きているというより、生かされている。

その私を、目に見えないところで願うてくださる方が、もう一人おられます。阿弥陀如来です。

親鸞聖人は、『正像末和讃』にこうお示しくださいました。

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし

『浄土真宗聖典(註釈版)』610頁

はかりしれないご恩は、身を粉にしても報いるべきほど大きい——。

「報ずべし」と聞くと、私はつい身構えます。何か立派なことをして返さねば、と。でも、これは命令ではありません。いただいたご恩があまりに大きくて、おのずと頭が下がる。その口から、南無阿弥陀仏と、こぼれ出てくださる。それが、報謝のお念仏です。

思えば、祖父が食卓で見せた、あの合掌。あれもまた、言葉にならない報謝の姿だったのでしょう。

あれほど静かに教わった私が、いまは平気で、ながら食事をしています。祖父の後ろ姿も、いのちへの感謝も、すぐ忘れる。忘れっぽい凡夫です。

しかし、無口な祖父が食事の際、その背中で教えてくれた繰り返しのなかに、いただいて、生かされて、願われている私を思い出します。

今日も、願われて。

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西敬寺住職 木賣 慈教(きうり じきょう) このnoteは、どなたにも気軽に読んでいただきたいと思い、公開しています。 どうぞお気遣いなくお読みください。 もし「この発信を応援したい」と感じてくださる方がおられましたら、そのお気持ちを今後の法座活動に使わせていただきます。