英文解釈教室の出典を探る(100)
付記
ここでは、そもそも、なぜこのような企画を始める気になったのか、について述べておこうと思う。
端的に言うと、それは既存の解釈に対する違和感であった。伊藤先生の和訳でも、ブラッシュアップされた新訳をなさった柴田氏の和訳でも、それは変わりがなかった。たとえば、だ。柴田氏の例題1の解釈はこうである。
社会生活で、文書を記すときでも、談話や政治演説や公式通知の起草をするときでも、気をつけてたくみに言葉を使うことが、文学への関心の基礎となる。文学は、こうした技巧と感受性を以て人間生活をより深く洞察するところから生まれるのである。
このブラッシュアップされた和訳は伊藤先生の和訳よりも確かに優れている。しかし、会話と手紙、そして談話や政治演説や公式通知が、果たして並列で並ぶものだろうか? この世界に普通の人と政治家という二種類の人種しかいない、とでもいうのだろうか(そういう考えもできなくはないが、それは、あくまで皮肉であろう)。
「何かが間違っているのではないか?」
結局、この考えを否定することはできなかった。そこで、この出典を調べて見ることにした。そうして見えてきたのは、この文章が、「外国人学生向けの英文学入門」であり、1950年代半ばに出版されたという時代背景であった。
この時点で、解釈は180度とは言わないまでも、まるっきり視界が変わってしまったといってよい。つまり、この文章が書かれた当時の、「学生の日常」というのは、日本でも同じようなものであるが、政治が常にそばにあった時代だったのである。それは安保闘争や、東大紛争をはじめとした学生運動を思い起こしていただければ、すぐに分かって頂けるだろう。
改めて、この例題1の英文を見直してみると、
in everyday life これは学生たちの日常生活という意味であろう。
in writing letters, in conversing, これは私的な手紙や、友人同士の会話のことだろう。
で、
making political speeches, drafting public notices
これは、まさしく学生たちが行う「スピーチ」のことだ。カルフォルニア大学バークレー校の「フリースピーチ運動」などでおなじみだ。そして、noticesとはおそらく、彼らがせっせと作る「パンフやポスター」の類を指すのだろう。politicalといってもいわゆる政治だけでなく、自由と平和といったより広い議題を含むだろう。
すると、時代背景だけでなく、「構文」というものに対する疑念さえも生じてきたのだった。なぜというに、
in everyday life 抽象
in writing letters, in conversing, 私的な日常
(in) making political speeches, drafting public notices 公的な日常
例えば、こんなふうに読めなければならないはずからだ。
一見すると、構文上は、in conversing …が3つ並んでいるように見える。
しかし、それは意味から考えて誤りである。ということは、字面で判断してはいけない、形だけで判断するのは危険である、ということであって、
英文解釈教室の主張と真っ向から反対する結論が導かれてしまうのである。
何も私は、目を皿のようにして間違いを探し出し、重箱の隅をつついて、これを発見したのではない。あくまでただ第1問目に疑問を抱き、調べたらばこういうことだったのである。しかし、第1問目からこの調子では、先が思いやられるではないか?
それじゃあ、全部の例題を調べてやろうじゃないか。と思ったのはこのときであった。そうでなければ、解釈も何もあったものではない。どこで、誰が、どういう時代背景のもとに、誰に向けて書いたのか。そうしたことが判明しないことには、文章の意味などあってないようなものだ。
それで100個近い例題を全部やってみると、今度はまた違う景色が見えてきた。これはただの英語の参考書ではない。現代に生きる我々が、考えるための本である。英語を教えるだけなら、こういう「つくり」にはしないだろう。ビジュアルやルールとパターンのような文章を選んでくるはずだ。
きっと伊藤先生は、「知」のパースペクティブを見せたかったのだろう。
例えば、だ。例題にはシュバイツアー博士の文章が出てくる。これを読むと、人類は決して捨てたものじゃないという気になる。なんだか胸が熱くなる。しかし、伊藤先生は、それをあえてひっくり返す。
次に出てくるのは、オーウェルの「私と原爆」だ。なんだか嫌な気分である。しかも、さらに次に出てくるのは、白人の欺瞞を弾劾するデュ・ボイスの文章だ。せっかく熱くなってたところに、冷や水どころか、氷水をぶっかけられるようなものである。
ああ、伊藤先生がやりたかったのはこういうことだったのだな、と思った。英語なんか眼中にないと言っては失礼だが、この本はそんなつまらない目的で書かれたものではない。だから先生は改訂するときも、一つも文章を入れ替えなかったのだ。
分かっていると思っていることを、分からなくさせること。これが先生の目的の一つだったのではないか、と思う。そこからしか本当の「知」というものは始まらないのだから。
その一方で、伊藤先生という方は、とても温かい人であったのだろう。
英文解釈教室は、この例文から始まる。
The freshness of a May bright morning in this pleasant suburb of Paris had its effect on the little traveller.
まるでこれは、受験生のさわやかな朝が始まるかのようではないか。
Anyone having difficulty in assembling machine may have the advice of our experts.
何だか、これは駿台にいらっしゃい、何でも質問にはお答えしますよ、とでも言いたげではないか。
One fine spring morning, a great many years ago, five or six young men met together in a large hall.
これは、学生たちが大教室に続々と集まってくる様子ではないか。
この英文解釈教室という本には、伊藤先生の厳しさ(cool head)と、温かさ(warm heart)とが、奇妙な形で同居している。この本がいつまでも売れ続けるのは、そういう魅力があるからではないだろうか、いや、きっとそうに違いないと思う。英文解釈教室は、ただの英語の参考書でも、単なるスノビズム的な教養の本でも、なかったのである。伊藤和夫という人間そのものを具現化した本であったのだ。
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