【小説】『ココロ走る』第二章:交わる足跡編 第29話 峠を越えて
雑賀崎の峠——それは私の人生のようだった。
舐めてた訳ではない。
だから下見ランも行った。
途中、陽介のリタイヤ。
またあいつとは一緒に走れる。
力をもらえたはず。
しかし———
なんだ、この峠は。一つ目の坂は想定内。
歩いてもいい気持ちで走ったら、抜けられると思い、何とか登りきった。その次の急な下りも下りきったら、次の登り?
えっ?こんなに何回も坂あったか?
私も事前にYouTubeで雑賀峠の動画は確認済みだ。そのときに、こんな坂はなかったはずだった。
想定外の坂が幾つも続く。とうとう、私は歩き始めた。前のみやけマラソンの思い出がよぎる。足が痺れたあのマラソン。他のランナーもちらほら歩き出した。それを見ると、なぜか安心する。
さらに追い討ちをかけてきたのが、強烈な便意。もうかれこれ1時間以上走っている。元々お腹は緩い方だ。朝から緊張してお腹にきていた。
エイドにトイレがあるはず。そこまで行けば…。
———と、次のエイドまで変な格好で歩く。
暑い!この日は11月に似合わず、夏日に近かった。しかも、お腹を拳で押されるようなこの強烈な便意。
一瞬、「リタイヤ」の4文字が頭をよぎる。
そもそも、さっきの陽介の介抱で、かなり時間が経ってる。その上に、歩いた時間を考えると、結構な時間を要している。制限時間を超えてしまうと、車で回収されてしまう。間に合うかどうか、ということになってくる。
そうこう考えている間にエイドがあった。
ボランティアの人に勢いこんでトイレはありますか?と、聞いた。優しそうな若い女性の方が
「あちらですよ」とトイレを案内してくれた。
ありがたい——。
こんなにトイレをありがたく思ったのは、小学生の帰り道、本当に漏れそうで泣きながら家まで走ったあの日以来だ。
残念ながら目の前の簡易トイレは2人並んでいた。この時の待ち時間がもう永遠に過ぎないくらい遅く感じた。AirPodsから聞こえる曲が聞こえなくなるくらい意識が下半身に集まっていた。
やっと回ってきた!
あ、助かった。
たまらない開放感でトイレを出た。簡易トイレの流し方が分からず若干もたついた。トイレットペーパーも念の為と明美が昨日ウエストポーチに入れてくれたのが幸いした。兎に角窮地は脱した。すれ違いに男性の若いランナーが簡易トイレに入っていくが、私より悲壮な顔をしていた。
さあ、どうする?
エイドの人にお礼を伝えて、その場を離れようとしたが、気になるので、「制限時間間に合いますか」と聞いた。
満面の笑みで「頑張ってください」と答えてくれた。
どっちとも取れる回答に、私は逆に吹っ切れた。
和歌山まで何しにきた?
走りに来たはず。
走ろう!
急に風景が広がった。峠の下り、私の右前方にマリンブルーの海が広がる。晴天のせいか、これでもか、というくらいに青い美しい海と、スカイブルーの水平線。白い雲とのコントラストがたまらない。こんなに綺麗な場所にいたのか———
雑賀崎が「日本のアマルフィ」と呼ばれるのが分かる美しい景観。この景色は多分一生忘れることはないだろう。
何人かのランナーはこの景色のために走ってきたのか、立ち止まってずっと撮影していた。
それくらい美しかった。
———大丈夫、行こう!
と自分を激励。ゆっくり、ゆったり走り出した。足はまだ前へ出る。坂を下りきった。
和歌の浦に出た。そして、ペースを少し上げた。歩く人、走る人がまばらだ。私は制限時間内に走れる気はしてないが、幾分さっきより走る人の数が多い。もしかして、制限時間に間に合うのか?車で回収されるのは避けたい。
今度は、シーサイドロード。初めて走る。海沿いの道。真横が海だ。風が私の背中をそっと押す。———気持ちがいい。
この海道を走りながらはっきりわかった。
間に合う!間に合わせられる。
気持ちよく走ってるうちにペースが上がっている。
1キロ6分ペース!いつものペースに戻っている。
さあ、行こう皆の待つゴールへ。
———
とうとう18キロ地点まで来た。もう回収はない。マリーナシティーの敷地に入ると回収はないと事前に聞いた。沿道の応援に応えて、前へ前へ出る。給水所以外でも市民の方から差し入れがある。フルーツやお菓子、全て気持ちで出してくれている。同じペースの人を見つけて、一緒に走る。もちろん喋る余裕もない。挨拶もしない。けれど、心強いペーサー。
後はマリーナシティーに入る坂を登るだけだと思い、足元を見ると靴紐が緩んでいるように思えたので、一旦止まって横に避けて、靴紐を直そうとした瞬間。
あっ!両足の前太ももが痙攣し始めた。このままではダメだと直感で思い、
靴紐もそのままで、少し歩いた。
手で前のももをマッサージしてる間に…
あっ!今度は裏ももがつった。
前と後ろの両方がつったのは初めてだった。
足を引きずるようにマリーナブリッジを渡り、ゆっくり歩きながら、回復を待った。しばらくすると高校生かと思われる女の子たちが列を作ってランナーを迎えている。
カッコつけよう…最後くらい
そんな気持ちだったと思う。
走り出した。再びゆっくりと。
前のランナーが私に声をかけてくれた。
「止まったら逆にしんどいから、ゆっくりでも走って走って」
ベテランランナーっぽいその人の言葉で、最後のエイドまで走れた。ランナーって皆優しい。エイドでコールドスプレーを両腿にかけて、
最後2キロ。
この2キロが長かった!
ゴールが近くなる!
ゴール1キロ手前で、陽介と松田、水嶋、桐谷が応援へ駆けつけてくれている。ダメな行為と分かっていても、マリーナシティーを一緒に走る。
もちろん彼らは沿道だ。
森山さーーん
声枯れ枯れに松田が叫ぶ。
車で回収されて、回復した陽介が叫ぶ。
桐谷が、水嶋が涙を流しながら応援しているのが見える。ここまで私が来れたのが奇跡なのだろう。
私もそう思う。数々の試練を乗り越えた。
照れ臭いが、右拳を天に突き上げガッツポーズで応えながら、最後の力を振り絞る。
ゴール向こうで、明美、萌花、綾が待っている。見えた、ゴールが!
みんなありがとう!
ゴーーーール!
決して1人きりで走ったマラソンではなかった……。家族がいる……陽介がいる……仲間がいる……
自分のために走り始め、
皆と走り出してわかった。
人は人のために生きている。
人のために何かをする。
人は人と生きている。
幸福感と満足感に包まれて、詩人のように私はなってしまったのかもしれない。
※本作に登場する「和歌山ジャズマラソン」は、実在の大会に基づいています。主催者様より名称使用のご了承をいただいています。
