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AI時代に物語は必要か?――安部公房を読んで

旧ソ連時代、日本の小説が大量に刷られていた。

しかも、それは恋愛小説でも、歴史小説でもない。

安部公房だった。

冷戦の時代、社会主義国家の書店で、日本の前衛作家が静かに読み継がれていたという事実は、いま振り返ると少し奇妙に思える。文学は国境を越える、と言ってしまえばそれまでだが、安部公房の場合、それは単なる翻訳文学の成功ではなかった。

彼の作品に登場するのは、制度や構造の中に閉じ込められた人間である。名前は曖昧になり、役割だけが残る。終わりの見えない作業を続け、出口のない世界を歩き続ける人物たちだ。

ソ連の読者は、その寓話を自分たちの社会として読んだ。直接的な政治批判ではない。むしろ、社会に適応していく過程で、人間がどのように形を変えていくのかを描いた物語だった。

そして不思議なことに、その主題は、二十一世紀の私たちの環境にも再び姿を現している。

AIが日常に入り込んだ現在、私たちは以前とは違うかたちで「構造」と共に生きている。アルゴリズムは情報を整理し、文章を生成し、思考を補助する。便利さと引き換えに、私たちは少しずつ、自分の判断を外部に預け始めている。

ここでふと、問いが浮かぶ。

AI時代に、物語はまだ必要なのだろうか。

AIはすでに物語を書くことができる。筋書きを整え、感情を模倣し、構造として完成されたストーリーを無限に生成できる。しかし、それでもなお、人間は物語を求め続ける。

それはおそらく、物語が情報を伝える装置ではないからだ。

物語は、人間が意味を探す行為そのものに近い。

安部公房の作品には、明確な解決がほとんど存在しない。登場人物は状況から抜け出せないまま、問いを抱え続ける。読者は結末を理解するというより、迷宮の中を歩き続けることになる。

それは不親切な物語にも見える。しかし、そこにこそ、人間が物語を必要とする理由が隠れている。

もし世界が完全に説明され、すべての答えが最適化されてしまったとしたら、人間は何を考えるのだろう。

AIは答えを提示する。効率的な選択肢を並べ、最も合理的な行動を示す。だが、人間が生きている実感は、しばしば合理性の外側にある。偶然や迷い、矛盾や違和感の中に、私たちは自分の輪郭を見つける。

安部公房が描いた人物たちは、構造の中で生きながらも、どこかで違和感を抱き続ける。その違和感こそが、彼らを人間たらしめている。

AI時代において、物語の役割は変わるかもしれない。世界を説明する物語は、AIがいくらでも作るだろう。しかし、人間が必要とする物語は、むしろ「問いを維持する物語」へと変わっていくのではないか。

答えを与える物語ではなく、答えを遅らせる物語。

意味を完成させるのではなく、意味を探し続けるための物語。

安部公房は、出口を書かなかった。読者を迷わせるためではなく、人間が生きるということ自体が、出口を持たない営みだからだろう。

AIが物語を無限に生成する時代に、人間が物語を書く意味は変わる。作者は創造者というより、問いを配置する存在になるのかもしれない。そして読者は、物語を読むというより、自分自身の意味を探しに行くことになる。

AI時代に物語は必要か。

その答えはまだわからない。ただ一つ言えるのは、物語が消えるとき、人間もまた、自分がなぜ生きているのかを語れなくなるということだ。

だから私たちは、たぶんこれからも物語を必要とし続ける。

答えを得るためではなく、問いを手放さないために。




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