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【企画SS#第二回すべて失われる者たち文芸賞】波音の果て

  ーー今度のお休みには、外で会いたいです。

 彼からのメッセージを見て、ああ終わるんだなと思った。
 やっぱり、俺じゃ駄目だったのか。
 ……やっぱり、俺は駄目なのか。

  ーーいいよ、どこにする?

 冷えていく心に気づかないふりをして、俺はいつもどおりに返す。
 やさしく、ゆったりと、手を差し伸べるように。
 彼の目に、そう映ってくれるように。

  ーー海を見に行きたいです。

 胸の奥で波音が響く。
 足裏に、冷たい波とやわらかな砂を感じる。
 やわらかく、ゆっくりと、指の間をくすぐりながら、足元が崩れていく。

  ーーわかった、迎えに行くよ。

 ああ終わるんだな、と思った。



 出会ったのは晩冬の木曜日。
 彼は生徒の付き添いとして、ピアノ講師を引き受けている音楽教室に現れた。
 叔父と呼ぶにはあまりに若い、つい先日まで少年だったことが明らかな彼を、生徒は「あきちゃんだよ」と軽やかに紹介してくれた。

「茉結、よく頑張ってたな」
 レッスンが終わると、彼は姪を抱き上げて言った。
「俺、ちゃんとピアノ聴くの初めて。すごく綺麗な音だった」
「ほんと? あきちゃん、楽しかった?」
 丸い瞳に浮かぶかすかな不安を吹き飛ばすように、彼は満面の笑みで答えた。
「うん、とっても楽しかった。音楽ってすごいな。茉結、また聴かせて」
「うん!」
 まだ少し難しい課題曲、何度も指がつまずく箇所。その日、指が止まる度唇を噛んでいた生徒は、彼の言葉に花開くように笑った。

 その時から、ずっと、俺にはあきが眩しかった。



「自分の車ですか?」
「うん」
 遠慮がちに助手席に乗り込んだあきの視線が、無意識のように俺の顔を撫でる。気づかない振りをして、ゆっくりとブレーキから足を外す。
 そういえば車は初めてだった。
 出会ってから十ヶ月。
 教室の外で会うようになって八ヶ月。
 口説き落として、恋人と呼べるようになってからは、まだ三ヶ月。
 かっこよく見えてるかな、と思う自分に、苦い微笑が浮かぶ。
 外見は親からもらった、たぶん一番の資産だ。前髪を上げて、薄く色の入ったメガネをかけて、シャツは袖を捲って。
 こういうの、あきからもかっこよく見えるのかな。
 好きだったかな、俺の顔。
「寝てていいよ」
 声をかけると、あきはゆっくりと首を振る。
 顔に、手に、あきの視線を感じながら、そっとアクセルを踏む。
 そもそもあきからは、俺はどう見えてたんだろう。
 顔が良くて、ピアニストで、十歳近く年上で⋯⋯
 最後まで、敬語のままだったな。
 そんなことを、ぼんやりと思った。


「着いたよ」
 人気のない晩秋の海。
 砂浜を、拳ひとつ分離れたまま、並んで歩く。
 波と風と、足元で流れる砂。

 ざぁあ、ざぁぁぁ……
 ごぉぉおぉお、ごぉぉ、
 ざ、ざ、ざ、ざぁ……

 世界は音で満ちている。

 頰を叩く風を避けるふりであきを見る。
 眩しそうに目をすがめて、薄く開いた唇から、時折ふ、と小さな息を吐いて。
 黙ったまま、彼はゆっくりと隣を歩く。拳ひとつ分だけ、俺から離れて。
 手を伸ばしたらどうなるんだろう。
 青年になったばかりの、まだ華奢な腕。
 あの腕を掴んで引き寄せたら。
 驚いて、困って、……怯えて、

 泣いたりするのかな。

 ざあ、と波音が耳を洗う。
 ひたひたと、心を冷たく満たしていく。

「あき」
 彼の視線が俺を捉える。静かな、透明な視線。
 綺麗だな、と思う。

 だから、俺じゃ駄目なのかな。

「……座ろうか」
 俺の言葉に小さく微笑んで、彼は「風が強いね」と呟いた。


 あの日から、あきとは教室で何度も会った。
 俺に勧められるまま、少しずつ少しずつ、彼は音楽と俺に慣れていった。

 チケットが余っているからと演奏会に誘ったのは、春の終わり。

 教室で会う「ハル先生」ではなく、ピアニストの「春木司」を見た彼は、わかりやすく戸惑って、世界が違うと困ったように笑って、それでも真っ直ぐな瞳で言った。

「俺、音楽は全然わからないけど……先生のピアノが、とても好きです」

 その言葉にあれほど心が震えたのは、あきに惹かれていたからなのか、ただピアノに疲れていたからなのかはわからない。

 わからないような人間だからなのかな、と思う。

 彼が離れていくのも。
 ピアノに、愛されないのも。


 防波堤に並んで座る。
 太陽が海に溶けていく。
 長く落ちたふたりの影を、猫が一匹過っていった。
「……あき」
 呼びかけると、夕日を弾く恋人の瞳が俺を映す。
 ピアノの音を綺麗だと言った、
 俺のピアノを好きだと言った、
 俺とピアノに出会わなくても生きていけた、俺の恋人。
 俺とピアノがなくても、生きていける俺の恋人。

 あの時から、俺だけに、あきはあまりにも眩しかった。

 ざぁーーー……

 波音。
 風。

 顔を寄せると、彼は静かに目を閉じた。

 ざぁぁぁ……
 ざぁぁ
 ざ、ざ、ざ、ざぁあ……

 世界は音で満ちている。




 音だけで、満ちている。


(本文1,988字)
以下の企画に応募させていただきます。
よろしくお願いいたします。
#第二回すべて失われる者たち文芸賞


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