アケメネス朝からサーサーン朝へ――ペルシス王国とフラタラカ政権の500年










概要
フラタラカ政権と、その後のペルシス王国は、現在のイラン南西部ファールス地方に存在した地方王朝です。
ざっくり流れを示すと、
アケメネス朝の故地
→ アレクサンドロスとセレウコス朝の支配
→ フラタラカと呼ばれる地方統治者
→ パルティアに従属するペルシス王国
→ サーサーン朝の成立
となります。
この地方政権は、アケメネス朝とサーサーン朝の間をつなぐ、約500年に及ぶ「ペルシア本土の地域的な政治伝統」でした。ただし、アケメネス朝からサーサーン朝まで同じ血統が連続した、という意味ではありません。
1 ペルシスとは何か
「ペルシス」はギリシア語による地域名で、古代ペルシア語のパールサ、現代のイラン南西部ファールス州にあたります。
ここは、
パサルガダエ
ペルセポリス
イスタフル
ナクシェ・ロスタム
などが集中する、アケメネス朝ペルシア帝国の発祥地でした。
紀元前330年、アレクサンドロス大王がペルセポリスを占領し、宮殿群を焼き払います。その後は後継者諸国の争いを経て、ペルシス地方もセレウコス朝の支配下に入りました。
しかし、都市部ではギリシア人・マケドニア人の入植やギリシア文化が広がった一方、地方の有力者、神殿、アラム語を用いる行政文化、旧アケメネス朝系の伝統は消滅しませんでした。
2 フラタラカとは
紀元前3世紀末から紀元前2世紀前半ごろ、ペルシスで銀貨を発行した地方統治者たちが現れます。
その貨幣にはアラム文字で、
「○○、神々のフラタラカ」
という意味に解釈される称号が刻まれていました。
このフラタラカという語は、
指導者
総督
副総督
先導者
などと訳されます。
アケメネス朝時代のエジプトでは、サトラップの下に置かれた地方行政官を指す称号として使用例があります。そのため現在では、ペルシスのフラタラカも、もともとはセレウコス朝から一定の権限を与えられた地方長官だった可能性が高いと考えられています。(Iranica Online)
「神々のフラタラカ」の謎
貨幣銘の「神々」にあたる語は、読み方によって、
アフラ・マズダーなどの神々
神格化された歴代の王
セレウコス朝の王たち
のいずれとも解釈できます。
以前はフラタラカを「拝火教の祭司王」「反ギリシア宗教運動の指導者」とする説が有力でした。
しかし現在では、彼らの被り物が祭司の帽子ではなく、地方総督や王族の権威を示すものと判明したため、単純な祭司政権説は支持されにくくなっています。(Iranica Online)
3 フラタラカ政権の成立年代
ここが最大の難所です。
フラタラカの歴史は、ほとんどが貨幣から復元されており、年代を直接記した文書がありません。そのため、研究者によって年代がかなり異なります。
大きく分けると、
古い説
紀元前3世紀前半から中葉に成立し、早い段階からセレウコス朝に抵抗した独立政権だった。
現在有力な説
紀元前3世紀末から紀元前2世紀初頭に、セレウコス朝の地方代表として成立し、紀元前2世紀中葉に中央政府の弱体化を利用して自立性を強めた。
という二つがあります。
『イラン百科事典』では、彼らが当初はセレウコス朝の代表者であり、ワフバルズまたはワードフラダードの時代に独立性を獲得した可能性が高い、とされています。(Iranica Online)
したがって、フラタラカ政権を最初から「民族解放運動」とみなすのは少し単純すぎます。
4 主要なフラタラカたち
一般に、次の人物がフラタラカとされています。
アルダシール1世
貨幣銘ではアルダフシール、ギリシア名風にはアルタクセルクセスと表記される人物です。
旧アケメネス朝王アルタクセルクセスと同系統の名であり、地方支配者がペルシア王家の記憶を意識していたことが分かります。
貨幣では、
顎ひげを蓄えた統治者
イラン式の頭巾
ギリシア的なディアデム
礼拝または献祭の場面
が描かれています。
ワフバルズ
ギリシア語史料ではオボルゾスと呼ばれた可能性があります。
後世の軍事著述家ポリュアイノスは、オボルゾスが自分の配下にいた約3,000人のギリシア系軍事植民者を、反乱を企てているとして殺害した逸話を記しています。
また、ワフバルズの一部の貨幣には、イラン式の服を着た支配者が、ギリシア系とみられる武装兵を倒す図像があります。
これをセレウコス朝からの独立戦争の記念とみる説がありますが、オボルゾスとワフバルズが本当に同一人物か、図像が特定の事件を表すのかについては議論があります。(Attalus)
ワードフラダード1世
ギリシア名風にはアウトプラダテスとも呼ばれます。
その貨幣では、統治者が神殿あるいは火の祭壇の前に立ち、その上に翼を持つ神的存在が表現されることがあります。
この像はアフラ・マズダーとも、王権を守護する象徴とも解釈されています。
バイダード
バグダテスとも表記されます。
かつては最初のフラタラカとされていましたが、貨幣の型や鋳型の分析から、アルダシール、ワフバルズ、ワードフラダードより後に置く説もあります。
したがって、
バイダード → アルダシール → ワフバルズ → ワードフラダード
という伝統的な順序は、確定したものではありません。
5 彼らは反ギリシア主義者だったのか
貨幣を見ると、フラタラカは確かにペルシア的な意匠を強調しています。
アラム文字の銘文
イラン式衣装
アケメネス朝風の髪型やひげ
火あるいは神殿の図像
ペルセポリスを思わせる建築
王の礼拝・献祭場面
一方で、貨幣そのものの形式や王の肖像表現には、ヘレニズム世界の影響が強く残っています。
つまり彼らは、ギリシア文化を完全に排除したというより、
ヘレニズム時代の政治・貨幣制度を使いながら、ペルシア固有の権威を再構成した
政権でした。
彼らはアケメネス朝とのつながりを強調しましたが、「大王」「諸王の王」を名乗らず、アケメネス朝大王だけに許された直立型の王冠も使用していません。
これは、彼らの野心が基本的にはペルシス地方の範囲に限定されていたことを示します。(Iranica Online)
6 ペルセポリスの再利用
フラタラカ政権の中心は、おそらくペルセポリス周辺にありました。
アレクサンドロスによって宮殿が焼かれた後も、ペルセポリスは完全に放棄されたわけではありません。フラタラカ時代には、旧宮殿付近で建設・改修活動が行われ、統治者らしき人物を描いた浮彫も残されました。(Iranica Online)
これは非常に象徴的です。
フラタラカは広大な帝国を復活させる力を持っていませんでしたが、旧王都を利用することで、
「われわれこそ、この土地の正統な支配者である」
と主張できました。
7 セレウコス朝からの離脱
紀元前2世紀になると、セレウコス朝は急速に弱体化します。
原因は、
ローマとの戦争
王位継承争い
バクトリアやパルティアの離反
イラン東部の喪失
ペルシア湾岸地域への統制低下
などでした。
この混乱のなかで、ペルシスのフラタラカは次第に自立性を高めたと考えられます。
ただし、ある日突然「独立宣言」を行ったわけではありません。地方統治者が徴税、軍事、神殿保護、貨幣発行などの権限を少しずつ拡大し、事実上の独立政権へ変化したのでしょう。
8 パルティアの進出とペルシス王国の成立
紀元前2世紀中葉、アルサケス朝パルティアのミトラダテス1世がイラン高原を征服しました。
ペルシスもおよそ紀元前140年代までにパルティアの勢力圏に入ったと考えられます。
しかしパルティアは、地元王朝を完全に廃止しませんでした。フラタラカ系の地方支配者、またはその後継者を残し、貨幣発行も認めました。
この前後から、貨幣銘にフラタラカではなく、
MLK’=王
という称号が現れます。
これ以降の地方王朝を、狭い意味でのペルシス王国、またはペルシス諸王と呼びます。
9 パルティア属国としてのペルシス王国
ペルシス王国は、紀元前2世紀後半から紀元後3世紀初頭まで続きました。
中心地はペルセポリス北方のイスタフルだったと考えられています。
王たちの称号
ペルシス王の貨幣には、
「王ダラヤーン、王ワードフラダードの子」
のように、王号と父子関係が刻まれます。(Iranica Online)
これによって王統の正統性を示していました。
主要な王名には、
ダラヤーン
ワードフラダード
アルダシール
マヌーチフル
ナパド
パクル
シャープール
などがあります。
名前の多くはイラン系で、ダラヤーンはダレイオス、アルダシールはアルタクセルクセスに対応します。
独立国ではなかった
「王」と称してはいましたが、基本的にはパルティア大王に従う属王でした。
ストラボンも、アウグストゥス時代のペルシス王について、以前はマケドニア人に、当時はパルティア人に服従していたと述べています。
貨幣の肖像や王冠にもパルティア文化の影響が強く、ペルシス王たちがパルティアから恒常的に独立していた証拠はありません。(Iranica Online)
ただし、パルティア帝国は地方分権的だったため、ペルシス王は内政、宗教施設、貨幣発行、地方軍事などで相当な裁量を持っていたと思われます。
10 ペルシス王国の文化
ペルシス王国の文化は、三つの要素が混ざったものでした。
アケメネス朝の記憶
王名、衣装、礼拝図像、旧王都の利用などを通じて、古代ペルシア王権を想起させました。
ヘレニズムの制度
肖像貨幣、銀貨の規格、ディアデムなど、アレクサンドロス以後の政治文化を受け継ぎました。
パルティアの影響
後期の王たちは、パルティア式の王冠、髪型、ひげ、正面向きまたは横向きの肖像を採用しました。
したがって、ペルシス王国は「純粋なアケメネス文化の保存庫」ではなく、時代ごとの外来文化を取り込みながら地域的アイデンティティを維持した社会でした。
11 サーサーン家の台頭
紀元後2世紀末から3世紀初頭、ペルシスには複数の小領主が存在していました。
後世の史料によれば、イスタフル王はバーズランギー家のゴーチフルという人物でした。
一方、イスタフルのアナーヒター神殿に関係していたとされるサーサーンと、その子または後継者パーパクの一族が力を伸ばします。
パーパクはゴーチフルを倒してイスタフルを掌握し、自らの息子シャープールを王としました。史料ごとに系譜や出来事が食い違うため、サーサーン、パーパク、アルダシールの正確な関係は確定していません。(Iranica Online)
12 アルダシールの反乱
パーパクの子アルダシールは、当初ペルシス東部のダラーブギルドを支配していたとされます。
その後、
ペルシス各地の小領主を征服
イスタフルを掌握
ケルマーンやフーゼスターンへ進出
独自貨幣を発行
パルティア王に対する服従を拒否
して勢力を拡大しました。
反乱の開始は、およそ紀元後211~212年とされています。(Iranica Online)
当時のパルティア帝国では、ウォロガセス6世とアルタバノス4世の内戦が起き、さらにローマ帝国との戦争も続いていました。
アルダシールは、この混乱を利用したのです。
13 ホルミズドガーンの戦い
224年、アルダシールはホルミズドガーンの戦いでパルティア王アルタバノス4世を破りました。
アルタバノスは戦死し、アルダシールはやがてクテシフォンを占領して、
「イランの諸王の王」
を称します。
これがサーサーン朝の成立です。(Iranica Online)
したがって、ペルシス王国は単にサーサーン朝に征服されて消えたのではありません。
より正確には、
ペルシス王国の内部で台頭した地方勢力が、王国を乗っ取り、さらに宗主国パルティアを倒して帝国化した
のです。
14 歴史的な意義
フラタラカ政権とペルシス王国の重要性は、主に三点あります。
ペルシア王権の地域的記憶を維持した
アケメネス朝滅亡後も、ペルセポリス周辺では王名、図像、神殿、儀礼が利用され続けました。
ただし、それがアケメネス朝の正確な歴史知識を意味するとは限りません。長い時間のなかで、史実は地方伝承や宗教的記憶へ変化していた可能性があります。
外来支配下でも地方自治が存続した
セレウコス朝でもパルティアでも、ペルシスは中央から派遣された官僚だけで統治されたのではありません。
地元有力者を地方長官や属王として利用する間接統治が続きました。
サーサーン朝成立の政治的基盤となった
サーサーン朝は無から突然生まれたわけではありません。
ペルシス王国が持っていた、
地方王権
神殿との結びつき
貨幣発行
イスタフルを中心とする行政組織
ペルシア王を名乗る伝統
を利用し、それを全イラン規模へ拡張したものでした。
まとめ
フラタラカ政権は、セレウコス朝支配下のペルシスで登場した地方統治者たちでした。彼らは当初セレウコス朝の代理人だった可能性が高いものの、中央政府の衰退とともに自立性を高め、アケメネス朝を想起させるペルシア的王権表現を発達させました。
その後、ペルシスはパルティア帝国の支配下に入りましたが、地元の王たちは属王として存続しました。約350年後、その地方王国のなかからアルダシールが登場し、宗主国パルティアを滅ぼしてサーサーン朝を建国します。
つまり両政権は、
アケメネス朝帝国の単純な残党ではなく、ヘレニズム・パルティア時代を生き延び、最終的に新しいペルシア帝国を生み出した地方王権
だったのです。
