ローマ軍を退けた「しぶとい小国」――メディア・アトロパテネ王国を漫画で学ぶ










メディア・アトロパテネ王国とは
メディア・アトロパテネ王国、一般にアトロパテネ王国とは、アレクサンドロス大王の死後、旧メディア地方の北西部に成立したイラン系王国です。
領域はおおむね現在のイラン北西部、ウルミア湖周辺からカスピ海西南部に当たり、歴史的なイラン領アゼルバイジャン地方の前身となりました。山岳地帯に守られ、セレウコス朝、アルメニア、パルティア、ローマという大国の間で、約500年にわたり独自性を保った「しぶとい小王国」です。(オックスフォードリファレンス)
1.建国者アトロパテス
建国者のアトロパテスは、アケメネス朝最後の王ダレイオス3世に仕えたメディア総督でした。
紀元前331年のガウガメラの戦いでは、メディア人などの部隊を率いてアレクサンドロス大王と戦いました。しかしアケメネス朝が崩壊すると、アトロパテスはアレクサンドロスに服従し、紀元前328~327年ごろ、再びメディア総督に任命されます。敗者側の高官でありながら、そのまま地位を維持した、かなりの政治的生存能力を持つ人物でした。(Iranica Online)
彼はアレクサンドロスの側近ペルディッカスに娘を嫁がせ、マケドニア人支配層との関係も築きました。一方で、自分の領地にはマケドニア人の総督を入れさせず、地元での権力基盤を維持したとみられます。
2.アレクサンドロスの死と王国成立
紀元前323年にアレクサンドロスが急死すると、その帝国は後継者たちによって分割されました。
メディア地方も二分されます。
南部の「大メディア」はマケドニア人将軍ペイトンの支配下
北西部の山岳地帯はアトロパテスが引き続き支配
こうしてアトロパテスの領地は、ギリシア人から**「アトロパテスのメディア」=メディア・アトロパテネ**と呼ばれるようになりました。正式な独立宣言があったわけではありませんが、ディアドコイ戦争の混乱を利用して、実質的な世襲王国になったと考えられます。(Iranica Online)
アトロパテスが築いた王朝は、その後数世紀にわたり存続しました。
3.なぜ独立を保てたのか
アトロパテネが長く存続できた最大の理由は、地形にあります。
中心部はウルミア湖周辺の盆地と、ザグロス山脈・アルメニア高原につながる山岳地帯でした。大軍が侵入しにくいうえ、侵略しても維持費がかかるため、大帝国にとって完全征服のうまみが小さかったのです。オックスフォードの古典事典も、アトロパテネをメディア北西部の「最も近づきにくい地域」と説明しています。(オックスフォードリファレンス)
そこで歴代王は、
大国に形式的に服属する一方、内政では自治を保つ
という戦略を取りました。
完全な独立国と属国の中間を、状況に応じて行き来する国家だったわけです。
4.セレウコス朝との対立
アレクサンドロス帝国のアジア領を継承したセレウコス朝も、アトロパテネを完全には支配できませんでした。
紀元前220年、セレウコス朝のアンティオコス3世は、アトロパテネ王アルタバザネスを攻撃しました。アルタバザネスは当時すでに高齢だったとされ、セレウコス軍を前に講和します。
この結果、アトロパテネは一時的にセレウコス朝の優越を認めましたが、王家そのものは存続しました。征服・直轄領化ではなく、朝貢や服属を条件とする妥協だったとみられます。(Iranica Online)
この時代、アトロパテネは東部・北部アルメニアの一部にまで勢力を伸ばしていた可能性があります。つまり、単なる守勢一辺倒の小国ではなく、ときには周辺へ拡張する力も持っていました。(Iranica Online)
5.パルティアの宗主権下へ
紀元前2世紀になるとセレウコス朝が衰退し、イラン高原ではパルティア王国が台頭しました。
おそらく紀元前148年以後、アトロパテネはパルティアの宗主権を認めるようになります。ただし、パルティア王が直接統治したのではなく、地元王家が存続する半独立の属国でした。(Iranica Online)
この関係はかなり緩やかでした。アトロパテネ王は独自の外交を行い、パルティア王と対立することさえありました。そのため「パルティア領の一地方」というより、
パルティアを盟主とするイラン系諸王国の一つ
と見るほうが実態に近いでしょう。
6.アルメニアとの複雑な関係
アトロパテネの西隣にはアルメニア王国があり、両国は婚姻、同盟、戦争を繰り返しました。
紀元前1世紀前半、アルメニア王ティグラネス2世が大帝国を築いた時期には、アトロパテネもその影響を強く受けたとみられます。一方、アルメニア王家とアトロパテネ王家の間では婚姻関係も結ばれました。
ところが両国は、ローマとパルティアが争うようになると、しばしば反対陣営につきます。アトロパテネはアルメニアにとって、
東方への進出路
パルティアとの間の緩衝地帯
王家同士の競争相手
という三つの意味を持つ地域でした。
7.マルクス・アントニウスの大遠征
アトロパテネ王国史で最も有名な事件が、紀元前36年のマルクス・アントニウスによる遠征です。
ローマの実力者アントニウスは、アルメニア王アルタヴァスデス2世の協力を得て、パルティアを攻撃しようとしました。アルメニア王は、自分と同名のアトロパテネ王アルタヴァスデスを敵視しており、アントニウスにアトロパテネ攻撃を勧めたとされます。(Iranica Online)
アントニウス軍はアトロパテネの要塞都市プラアタ/プラアスパを包囲しました。ところが、後方から運んでいた攻城兵器と輸送部隊をパルティア軍に襲撃され、破壊されます。
城壁を破る手段を失ったローマ軍は包囲を断念し、冬が迫るなかアルメニア方面へ撤退しました。撤退中もパルティア騎兵による攻撃を受け、多数の兵士を失います。ローマ史上でも有数の苦しい遠征となりました。(Iranica Online)
山岳要塞と騎兵戦術を組み合わせたアトロパテネ=パルティア側の勝利でした。
8.昨日の敵ローマと同盟する
ところがアントニウスの撤退後、アトロパテネ王アルタヴァスデスは、戦利品の分配などをめぐってパルティア王フラーテス4世と対立しました。
そこで彼は、なんと直前まで自国を攻撃していたアントニウスと同盟します。アントニウスは軍事支援を提供し、アトロパテネ王女イオタペと、クレオパトラとの息子アレクサンドロス・ヘリオスを婚約させました。
典型的な「敵の敵は味方」です。
しかし紀元前31年、アントニウスがオクタウィアヌスとの決戦に備えて兵力を引き揚げると、アルタヴァスデスはパルティア軍に敗れ、王国を追われました。のちに彼はアウグストゥスのもとへ亡命しています。(Iranica Online)
9.ローマとパルティアの緩衝国家
アウグストゥス時代以降も、アトロパテネはローマとパルティアの双方から重視されました。
ローマはアトロパテネ王族を支援し、ときには彼らをアルメニア王に任命しました。たとえばアトロパテネ出身のアリオバルザネスは、西暦2年ごろローマの支援でアルメニア王となり、その息子アルタヴァスデスも後を継いでいます。(リウィウス)
このことからも、アトロパテネ王家が単なる地方豪族ではなく、ローマ東方政策に利用できる有力な名門だったことが分かります。
一方、1世紀初頭ごろには、建国者アトロパテス以来の王統に代わり、パルティアのアルサケス王家の一族がアトロパテネ王位に入ったと考えられています。それでも王国の半自治的な地位は続きました。(ウィキペディア)
10.サーサーン朝への編入
3世紀初頭、パルティアではアルサケス朝の支配が弱まり、南西イランのペルシスからサーサーン家のアルダシール1世が台頭しました。
西暦224~226年、アルダシール1世はパルティア最後の有力王アルタバノス4世を破り、サーサーン朝を建国します。アトロパテネもほどなくサーサーン朝に服属し、独立・半独立王国としての歴史を終えました。
以後はアードゥルバーダガーンと呼ばれるサーサーン朝の重要州となり、辺境防衛とゾロアスター教信仰の中心地として発展します。(ウィキペディア)
王国の文化
アトロパテネはヘレニズム時代に成立しましたが、ギリシア系住民が建設した都市国家ではありません。
支配者は基本的にイラン系で、住民もメディア系を中心とするイラン系諸集団だったと考えられます。宮廷ではギリシア語の称号や外交慣行を部分的に受け入れながら、政治・宗教面ではイラン的伝統を強く維持した、と見るのが妥当です。
王都・王宮所在地としてはガンザク/ガザカや、アントニウスが包囲したプラアスパが古代史料に登場します。ただし各都市の正確な位置については議論が残っています。ガザカは古代末期にもメディア有数の都市として知られました。(Iranica Online)
宗教はゾロアスター教を中心とするイラン系信仰でした。後世、この地方にはサーサーン朝屈指の聖火アードゥル・グシュナスプが置かれ、北西イランにおけるゾロアスター教の重要性を象徴することになります。
「アゼルバイジャン」の語源
「アトロパテネ」という国名は、建国者アトロパテスの名に由来します。
アトロパテスのイラン語形アートゥルパートは、おおよそ「火に守られた者」という意味です。国名は時代とともに、
アトロパテネ
→ アートゥルパータカーン
→ アードゥルバーダガーン
→ アーザルバーイジャーン
と変化しました。これが現在の「アゼルバイジャン」という名称につながります。(Iranica Online)
ただし、古代のアトロパテネの中心は主として現在のイラン領アゼルバイジャン地方です。アラス川以北の現在のアゼルバイジャン共和国とは、一部関係はあるものの、領域がそのまま一致するわけではありません。現代国家がアゼルバイジャンを国名として採用したのは1918年です。(Iranica Online)
この王国の歴史的な面白さ
アトロパテネ王国は大帝国を築いた国ではありません。ところが、
アレクサンドロス帝国の崩壊を生き残る
セレウコス朝に征服されない
パルティアに従いながら自治を保つ
ローマの大遠征を失敗させる
王族をアルメニア王として送り込む
国名を現代まで残す
という、非常に印象的な歴史を持っています。
要するに、アトロパテネは**「正面から大国に勝つのではなく、地形・外交・名門王家の権威を利用して生存し続けた国家」**でした。ヘレニズム世界にありながらイラン的伝統を維持し、古代メディアからサーサーン朝期のアゼルバイジャン地方をつなぐ、重要な橋渡し役だったのです。
