北から、南から
深夜一時を過ぎると、駅の北口は急に静かになる。
昼間はあれだけ人が流れていたのに、まるで誰かが栓を閉めたみたいに、人の気配が細くなる。タクシー乗り場の列も短い。ベンチには酔った男がひとり座っていて、膝の上に置いた鞄を、子どもみたいに抱えていた。
私は仕事帰りだった。
遅くまで残ったわけではない。遅くまで残ることが、いつの間にか普通になっていただけだった。
四十七歳。
一人暮らし。
冷蔵庫には卵が二つと、開封したままの味噌がある。
帰ればそれで何か作れる。
作れるけれど、作る気にはなれなかった。
駅前の小さな店で、温かいほうじ茶を買った。
ペットボトルを両手で持つと、指先の冷えが少し戻った。レジ袋はいらないと言うと、店員の青年が小さく頷いた。眠そうな目だった。
外へ出ると、風が吹いていた。
北から来る風だった。
たぶん、そう思っただけだ。
でも、その夜の風には、遠くの雪の匂いが少し混じっている気がした。
私は南口へ抜ける地下通路に入った。
通路には、ほとんど人がいなかった。
蛍光灯が白く光っていた。
天井のどこかで、配管が小さく鳴っていた。
かん。
かん。
遠くで水滴が落ちる音もした。
自分の靴音が、少し遅れてついてくる。
歩きながら、私はほうじ茶をひと口飲んだ。
熱くはなかった。
けれど、舌の奥に残る渋みが、今の自分にはちょうどよかった。
通路の途中に、古い掲示板がある。
町内会の知らせや、閉店した写真館の貼り紙が、何週間もそのままになっている。誰も見ていないようで、たぶん誰かが見ている。そういうものだった。
その掲示板の前に、女が立っていた。
年齢はわからなかった。
私より上にも、下にも見えた。
黒い傘を畳んで、足もとに置いていた。
外は雨ではなかった。
私は少しだけ足を緩めた。
女は貼り紙を見ているようで、見ていないようだった。
通り過ぎようとしたとき、女がこちらを向いた。
「北口は、まだ開いていますか」
そう聞かれた。
私は振り返った。
「開いてます。タクシーも少しだけ」
「そうですか」
女は小さく頭を下げた。
声は静かだった。
疲れている人の声だった。
私も同じような声をしているのかもしれないと思った。
「南口へ行くんですか」
なぜか、そんなことを聞いていた。
女は少し考えてから、頷いた。
「南口から来たんです。でも、北口へ戻ろうかと思って」
「迷っているんですね」
「そうかもしれません」
会話はそこで終わるはずだった。
私はまた歩き出した。
十歩ほど進んでから、背中のほうで、傘の先が床を軽く叩く音がした。
こつ。
こつ。
それが妙に、私の靴音と合っていた。
南口へ出る手前に、自動販売機が並んでいる場所がある。
明るすぎるくらい明るい。
そこだけ、夜が薄くなっている。
私は立ち止まった。
飲みかけのほうじ茶を持っているのに、なぜかもう一本買いたくなった。
缶のコーンスープを買った。
取り出し口に落ちる音が、地下通路に大きく響いた。
女も近くで足を止めた。
私は缶を拾って、少し迷ってから差し出した。
「飲みますか」
女は驚いた顔をした。
「いいんですか」
「間違えて買いました」
嘘だった。
女はそれが嘘だと気づいたように、小さく笑った。
「じゃあ、間違いをいただきます」
その言い方が少しだけおかしくて、私は曖昧に笑った。
女は缶を両手で包んだ。
プルトップを開ける音がした。
小さな音だった。
でも、深夜の地下通路では、十分に大きかった。
私たちは自販機の横にある細いベンチに座った。
座る理由はなかった。
座らない理由もなかった。
南口へ上がる階段の向こうから、風が吹き込んでくる。
こちらは少し湿った風だった。
南から来る風だと思った。
海なんて近くにない。
それでも、その風には、雨上がりの草の匂いみたいなものが混じっていた。
「北のほうから来たんです」
女が言った。
「旅行ですか」
「いいえ。戻ってきたんです」
私は頷いた。
戻る、という言葉には、行く、よりも重いものがある。
どこへ戻るのか。
誰のところへ戻るのか。
そういうことは聞かなかった。
「あなたは」
と女が言った。
「南のほうから来た人みたいに見えます」
私は少し笑った。
「生まれたのは、たぶんこの町より北です」
「たぶん?」
「もう、あまり関係なくなりました」
女は缶を見つめた。
湯気は出ていなかった。
それでも、両手で持つには十分温かそうだった。
「関係なくなることって、ありますよね」
女はそう言った。
私は返事をしなかった。
その代わり、通路の端に置かれた清掃用のバケツを見た。
中に水が少し溜まっていた。
蛍光灯の光が揺れていた。
誰も触れていないのに、水面が細かく震えていた。
地上を大型の車が通ったのかもしれない。
どこかで電車の回送が走ったのかもしれない。
でも、その揺れは、どこか遠くの海から来たもののようにも見えた。
私は目を細めた。
一瞬だけ、地下通路の床が、船の底みたいに揺れた気がした。
本当に揺れたのかは、わからない。
女も何も言わなかった。
ただ、缶を持つ手に少し力を入れた。
その指先を見て、女も同じものを感じたのかもしれないと思った。
「たまに」
女が言った。
「どこから来たのか、わからなくなるんです」
声は小さかった。
私はほうじ茶を飲んだ。
冷めかけていた。
「私は、どこへ帰るのか、わからなくなることがあります」
言ってから、少し余計だったかと思った。
でも、女は笑わなかった。
「それは似ていますね」
「そうかもしれません」
地下通路の奥で、シャッターが下りる音がした。
がらがらと長く響いて、それから止まった。
どこかの店の片づけだろう。
夜は、閉じる音が多い。
扉。
シャッター。
鍵。
まぶた。
誰かの言葉。
閉じたあとに残る静けさのほうが、いつも少しだけ重い。
女はコーンスープを少しずつ飲んでいた。
私はその横で、ほうじ茶のラベルを指でなぞっていた。
そこには雪の絵も、海の絵もなかった。
ただ商品名があるだけだった。
それなのに、私は北方と南方のことを考えていた。
北方から来るもの。
冷えた風。
古い記憶。
言えなかった言葉。
南方から来るもの。
湿った風。
眠気。
まだ終わっていない何か。
どちらも、私の中に少しずつあった。
「昔、ここに小さな花屋がありました」
女が言った。
「この通路にですか」
「ええ。改札の近くに。夜遅くまで開いていて」
私は記憶を探った。
あったような気もする。
なかったような気もする。
この町に長く住んでいるのに、私はこの町のことをあまり覚えていない。
毎日通っている場所ほど、かえって見ていないのだと思う。
「灰色の花を売っていたんです」
女は続けた。
「灰色の花?」
「たぶん、ほんとうは白だったんです。地下の明かりで、灰色に見えただけ」
私は頷いた。
その花を、見たことがあるような気がした。
細い茎。
薄い花びら。
湿った新聞紙に包まれている。
でも、それが自分の記憶なのか、女の言葉から作ったものなのかはわからなかった。
「誰かに買ったんですか」
「いえ」
女は少し笑った。
「買おうと思っただけです」
買おうと思っただけ。
その言葉は、なぜか胸のあたりに残った。
人生には、買おうと思っただけのものがいくつもある。
電話しようと思っただけ。
謝ろうと思っただけ。
会いに行こうと思っただけ。
部屋のどこにも残っていないのに、妙に場所を取っているものたちだった。
私は飲み終えたペットボトルを手の中で軽くへこませた。
ぱき、と小さな音がした。
女は缶を両手で持ったまま、南口の階段を見ていた。
「行かなくていいんですか」
私が聞いた。
「行っても、行かなくても」
女はそこで言葉を切った。
その先は言わなかった。
私は頷いた。
そういう夜もある。
行っても、行かなくても。
帰っても、帰らなくても。
何かが大きく変わるわけではない。
でも、どちらかを選ばなければならない。
そういう小さな分かれ道ばかりで、生活はできている。
突然、地下通路の蛍光灯が一度だけ瞬いた。
ちか、と白い光が薄くなり、すぐに戻った。
その一瞬、通路の壁が少し遠くへ伸びたように見えた。
北口のほうも。
南口のほうも。
どちらも、今よりずっと遠い場所につながっているように見えた。
雪の降る町。
湿った夜の港。
誰もいない待合室。
古い団地の階段。
知らないはずの景色が、ほんの少しだけ目の端を流れた。
私は瞬きをした。
蛍光灯は、普通に点いていた。
地下通路は、ただの地下通路だった。
女は缶の中を覗いていた。
「なくなりました」
と小さく言った。
「駅のゴミ箱、あっちです」
私は指で示した。
女は立ち上がり、缶を捨てに行った。
歩く音が静かに離れていった。
こつ。
こつ。
それから戻ってきた。
私も立ち上がった。
ポケットの中の鍵が小さく鳴った。
それだけで、自分にも帰る場所があることを思い出した。
広くもない部屋。
冷えた床。
卵二つ。
開封した味噌。
朝になれば、また洗面台の前で髭を剃る。
それは寂しいことかもしれない。
でも、今夜は、そこまで悪いことではない気がした。
「北口へ戻ります」
女が言った。
「私は南口へ出ます」
「反対ですね」
「そうですね」
私たちは少しだけ笑った。
笑うというほどでもなかった。
ただ口元が少しゆるんだだけだった。
「コーンスープ、ありがとうございました」
「間違えて買ったので」
「また間違えてください」
女はそう言って、黒い傘を持った。
傘の先が床を叩く。
こつ。
こつ。
北口のほうへ歩いていく背中を、私はしばらく見ていた。
声をかける理由はなかった。
名前を聞く理由もなかった。
もう会わないかもしれない。
会うかもしれない。
どちらでもよかった。
ただ、女の歩いていく先から、冷たい風が少しだけ流れてきた。
私は南口の階段を上った。
地上に出ると、空は低く曇っていた。
雨は降っていなかった。
道路は少し濡れていて、街灯の光をぼんやり返していた。
遠くのビルの窓に、まだ明かりが一つだけ残っていた。
誰かが起きている。
そのことを、私は静かに受け取った。
歩き出すと、靴底が濡れた舗道を擦った。
しゃり、という小さな音がした。
私はその音を聞きながら、さっきの地下通路のことを考えた。
北方から、南方から。
人はいろいろな場所から来る。
そして、いろいろな場所へ帰る。
たぶん、正しい道ばかりではない。
間違えて買った飲み物みたいに、差し出されたものを両手で持って、少し温まる夜もある。
それくらいで十分なこともある。
角を曲がる前に、一度だけ振り返った。
南口の階段は、もう誰もいない口を開けていた。
その奥から、北の風と南の風が、ほんの少し混ざって流れてくる気がした。
私はペットボトルを持ち直した。
中身は空だった。
けれど、手のひらには、まだ少しだけ温度が残っていた。
家に帰ったら、味噌汁を作ろうと思った。
卵を落としてもいい。
それから、窓を少しだけ開ける。
風がどちらから来るのか、確かめるためではなく。
ただ、部屋の中の空気を少し動かすために。
深夜の町は、まだ眠りきっていなかった。
私もまだ、眠りきってはいなかった。
それで、ひとまずよかった。
