【勝手なスピンオフストーリー】 うっかり八兵衛・少年時代
――まだ誰も彼を「うっかり」と呼ばなかった頃
「てえへんだ、てえへんだ!」
江戸の外れの小さな宿場町を、一人の少年が駆けていた。
年の頃なら十二、三。
着物の裾をからげ、草履をぱたぱた鳴らしながら、右手には風呂敷包みを抱えている。
少年の名は、八兵衛。
この頃はまだ、誰も彼を「うっかり八兵衛」とは呼んでいなかった。
もっとも――。
「八兵衛! お前、どこへ行くんだい!」
魚屋のおかみさんが呼び止める。
「どこって、隣町ですよ! こいつを届けに!」
「隣町は反対だよ!」
八兵衛は急停止した。
「……え?」
振り返る。
しばらく考える。
「あっ!」
この頃から、その片鱗は十分にあった。
八兵衛少年、初めてのお使い
八兵衛の家は裕福ではなかった。
父親を早くに亡くし、母親と二人暮らし。
八兵衛は宿場の店から店へ走り回り、荷物運びや使い走りをして、わずかな銭を稼いでいた。
失敗は多かった。
味噌を頼まれて醤油を買う。
三軒目に届ける団子を二軒目に置いてくる。
「絶対に開けるな」と言われた重箱を、いい匂いがするからと少しだけ開け、その拍子に坂道でひっくり返す。
けれど、不思議と八兵衛を本気で嫌う者はいなかった。
失敗すると、ごまかさない。
「すんません!」
と頭を下げる。
そして自分の失敗を取り返そうと、人の倍走った。
そんな少年だった。
ある夏の日。
茶店の婆さんから、八兵衛は一つの仕事を頼まれた。
「隣町の甚兵衛さんに、これを届けておくれ」
渡されたのは、小さな風呂敷包みだった。
「大事なものだからね。寄り道するんじゃないよ」
「任せてくださいよ!」
八兵衛は胸を叩いた。
その瞬間、嫌な予感しかしない。
そして案の定、八兵衛は寄り道をした。
街道の途中で、腹を空かせた小さな女の子を見つけてしまったのである。
「おめえ、どうした?」
女の子は答えない。
ただ、道端に座り込んでいる。
八兵衛のお腹も鳴った。
女の子のお腹も鳴った。
八兵衛は懐を探った。
朝から働いてもらった銭が、ほんの少し。
これで団子を買えば、自分の昼飯はなくなる。
八兵衛は団子屋を見た。
女の子を見た。
もう一度、団子屋を見た。
「……しょうがねえなあ」
八兵衛は団子を一本買った。
そして女の子に差し出した。
「食えよ」
女の子は目を丸くした。
「お兄ちゃんは?」
「俺ぁ腹いっぱいなんだ」
ぐううううう。
盛大に腹が鳴った。
女の子が初めて笑った。
「鳴ってるよ」
「これは腹じゃねえ。雷だ」
空は快晴だった。
消えた風呂敷包み
女の子を近くの寺まで送り届け、八兵衛は再び街道を走り始めた。
しばらくして気づく。
「あれ?」
右手を見る。
ない。
左手を見る。
ない。
背中を見る。
もちろん、ない。
「荷物がねえ!」
八兵衛は真っ青になった。
来た道を全速力で引き返す。
団子屋にもない。
寺にもない。
道端にもない。
八兵衛は半泣きになった。
大事なものだと言われていた。
もし高価な品だったら。
弁償などできるはずもない。
母親に迷惑がかかる。
「どうしよう……」
そのときだった。
街道の向こうから、三人の男が歩いてきた。
一人は身なりのよい商人風の老人。
その後ろには、旅慣れた様子の若い男が二人。
老人の手には、見覚えのある風呂敷包みがあった。
「坊主。探し物は、これかな?」
「ああっ!」
八兵衛は飛びついた。
「それです! 俺のです!」
老人は笑った。
「ずいぶん大事そうなものだな」
「はい!」
「では、今度こそ落とさぬようにな」
八兵衛は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます! このご恩は一生忘れません!」
そう言って走り去る。
十歩ほど走ったところで、老人が呼んだ。
「坊主!」
「へい!」
「隣町は、そっちではないぞ」
八兵衛は立ち止まった。
「……へ?」
若い男の一人が吹き出した。
もう一人は呆れた顔をしている。
八兵衛は顔を真っ赤にして戻ってきた。
「いやあ、どうも、俺、昔っからこういうところがありまして……」
老人は愉快そうに笑った。
「そうか。だが――」
そして、八兵衛が来た道をちらりと見た。
「腹を空かせた子供に、自分の昼飯を譲ることも、昔からなのだろう?」
八兵衛は驚いた。
どうやら見られていたらしい。
「別に、大したことじゃありませんよ」
「そうかな」
老人は目を細めた。
「人間、利口なだけでは面白くない。少しくらい抜けていても、人の腹の減り具合が分かる者のほうが、わしは好きだがな」
八兵衛には、その言葉の意味がよく分からなかった。
「変なお爺さんだなあ」
若い男二人の顔色が変わった。
だが老人だけは大笑いした。
「はっはっは! そうかもしれんな」
八兵衛は再び頭を下げる。
「じゃあ俺、今度こそ行きます!」
「ああ。達者でな、八兵衛」
八兵衛は走り出した。
そして十数歩。
突然、止まった。
ゆっくり振り返る。
「……あれ?」
老人たちはもう歩き始めている。
「俺、名前言ったっけ?」
返事はなかった。
蝉の声だけが街道に響いていた。
その日の夕方
八兵衛はどうにか荷物を届けた。
風呂敷の中身は、高価な品などではなかった。
病気で寝込んでいる甚兵衛のために茶店の婆さんが作った、梅干しと握り飯だった。
「なんだよ。食い物だったのか」
そう呟いた八兵衛は、少しだけ笑った。
人は腹が減る。
偉い人も。
貧しい人も。
大人も。
子供も。
だったら、腹を空かせている奴がいたら、食わせてやればいい。
少年の八兵衛には、世の中の難しいことなど分からなかった。
正義も、政治も、身分も知らない。
ただ、
腹を空かせている人を放っておけない。
それだけは知っていた。
それから長い年月が過ぎる。
八兵衛は大人になった。
相変わらず食いしん坊で、
相変わらず早とちりで、
相変わらず肝心なところで失敗する。
そしてある日。
旅の途中で、一人の老人と出会うことになる。
「八兵衛、参るぞ」
「へい、御隠居!」
老人の後を追いながら、八兵衛はふと思う。
この笑い声。
どこかで聞いたことがあるような――。
「八兵衛、何をしておる。置いていくぞ」
「あっ、待ってくださいよ御隠居!」
考えていたことなど、もう忘れた。
八兵衛は慌てて走り出す。
助三郎と格之進が顔を見合わせる。
御隠居だけが、懐かしそうに笑っていた。
まだ八兵衛は知らない。
少年の日の街道で出会った「変なお爺さん」と、
いま自分が追いかけている御隠居が、
同じ人物だったことを。
そして――
世直しの旅でどれほど失敗を重ねても、
この食いしん坊で、お人好しで、少々うっかりした男を、
御隠居が決して見放さない理由を。
その理由は案外、
一本の団子から始まっていたのかもしれない。
あとがき
『水戸黄門』を思い返したとき、助さんや格さんのように剣が使えるわけでもなく、印籠を出すわけでもない八兵衛が、なぜいつも旅の仲間にいるのだろう、と考えることがあります。
八兵衛の役割は、案外「普通の人」であることなのかもしれません。
お腹が減れば飯を食べたい。
美味しいものを見れば目を輝かせる。
怖ければ逃げるし、慌てれば間違える。
けれど、人が困っていれば放っておけない。
そんな八兵衛だからこそ、黄門さまたちの「世直し」を、私たちの側から見せてくれる存在になったのではないでしょうか。
もし八兵衛が少年の頃から八兵衛だったとしたら。
そんな想像から生まれた、架空の少年時代のお話です。
※本記事は『水戸黄門』の登場人物「うっかり八兵衛」を題材にした非公式の二次創作・スピンオフです。原作および各映像作品の公式設定とは異なります。
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