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谷博貴の思考法

副題:九つの操作と、二つの出口

はじめに|考えるとは、対象を動かすことである


考えるとは何だろうか。

知識を増やすことだろうか。
正解を探すことだろうか。
深く掘り下げることだろうか。
あるいは、誰かの意見に反論することだろうか。

もちろん、それらも考えることに含まれている。

だが、私にとって考えるとは、もう少し違う。

考えるとは、目の前にあるものを、そのまま受け取らないことである。

少し分けてみる。
似たものを並べてみる。
量を変えてみる。
何かを抜いてみる。
別の場所へ移してみる。
別の概念に置き換えてみる。
遠いものとつなげてみる。
最後に、前提そのものをひっくり返してみる。

そうすると、ただの疑問だったものの奥から、少しずつ構造が見えてくる。

つまり、私の思考は、対象を説明するというより、対象に操作をかける思考なのだと思う。

ここでは、その思考法を九つの操作として整理してみたい。

そして最後に、それを文章へ戻す二つの出口について書く。

第一操作|具体的な疑問から入る


私の考えは、たいてい大きな理論から始まらない。

むしろ、かなり具体的な疑問から始まる。

フェルビナクとボルタレンは同じなのか。
イブやカロナールやバファリンは弱い薬なのか。
江戸時代の町医者は何を粉にしていたのか。
時代劇に出てくる、おっかあの病気を治す高額な薬は何だったのか。
石神千空は本当に三千七百年も秒数を数えられたのか。
現代人が石器時代に飛ばされたら、文明をどこまで再建できるのか。

入口だけを見ると、ただの雑談に見えるかもしれない。

けれど、具体的な疑問には強さがある。

なぜなら、具体的な疑問は、現実に触れているからだ。

抽象的な言葉は、いくらでも綺麗にできる。
だが、具体物はごまかしにくい。

薬には成分がある。
値段がある。
効き方がある。
使う場面がある。
人間の身体がある。
生活の事情がある。

だから私は、まず具体的なものから入る。

大きな問いを、最初から大きなまま扱わない。

小さな違和感に触れる。
そこから始める。


第二操作|似たものを並べる


次に、似たものを並べる。

フェルビナク。
ボルタレン。
ロキソニン。
イブ。
カロナール。
バファリン。
タイガーバーム。
オロナイン。
ヴェポラップ。
ハッカ油。

これらはすべて、どこかで「痛み」や「身体の不調」と関係している。

だが、同じではない。

外用薬と内服薬は違う。
鎮痛薬と消毒薬は違う。
炎症を抑える薬と、冷感で感覚をずらすものは違う。
医薬品と民間的なケア用品も違う。

似ているものを並べると、違いが見える。

これは薬だけではない。

おにぎり、おむすび、握り飯。
チャーハン、焼き飯、ピラフ、パエリア。
科学、魔法、錬金術。
誠実さ、潔さ、勇ましさ。
任せること、押し付けること。
恋心、執着、希望、欠如。

似ているものを並べると、言葉の境界が見えてくる。

私は、単に「これは何か」と問うより、
「これは何と似ていて、何とは違うのか」
と考えることが多い。

ものごとは、単体では輪郭を持ちにくい。

隣に似たものを置いたとき、初めて輪郭が立ち上がる。


第三操作|同じところと違うところを分ける


似たものを並べたら、次に分ける。

ここで重要なのは、同じか違うかを急いで決めないことである。

フェルビナクとボルタレンは、どちらも外用の鎮痛消炎薬として使われる。
その意味では近い。

だが、有効成分は違う。
作用の強さも違う。
商品としての位置づけも違う。

だから、同じでもあり、違う。

この「同じでもあり、違う」を分けて扱う必要がある。

江戸時代の薬も同じである。

「薬」とひとことで言えば、現代薬も江戸の粉薬も同じように見える。

だが、現代薬は成分を抽出し、量を測り、標的を絞る。

江戸の薬は、生薬を組み合わせ、経験則によって身体全体に当てる。

同じ薬ではある。

しかし、薬というものの考え方が違う。

分けるとは、単に分類することではない。

混ざっているものをほぐすことである。

痛みと炎症を分ける。
薬効と値段を分ける。
病名と生活条件を分ける。
知能と記憶力を分ける。
科学的リアリティと物語上の嘘を分ける。
発信と保存を分ける。

多くの混乱は、本来分けるべきものを一つの言葉で扱うところから生まれる。

だから、まず分ける。

分けることで、問いが濁らなくなる。


第四操作|強弱や量を動かしてみる


分けたあとは、量を動かす。

どれが強いのか。
どれが弱いのか。
どこまでなら成立するのか。
どこから破綻するのか。

たとえば、鎮痛薬の話なら、最強と最弱を考える。

ボルタレンはどの位置か。
フェルビナクはどの位置か。
カロナールは弱いのか。
ハッカ油は鎮痛剤なのか、それとも感覚をずらすだけなのか。

量を動かすことで、対象の性質が見えてくる。

Dr.STONEの話なら、三千七百年という時間を動かしてみる。

一日なら数えられるかもしれない。
一ヶ月なら怪しい。
一年なら自我を保つだけでも厳しい。
百年なら人格が変わる。
三千七百年なら、もはや人間の時間感覚を超えている。

また、秒数の誤差も考える。

たった数パーセントのズレでも、三千七百年後には百年単位の誤差になる。
人間は二十四時間ですらズレる。
外部基準なしに三千七百年を測ることは、測定というより祈りに近い。

こうして量を動かすと、設定の限界が見える。

量は、ものごとの耐久試験である。

少しなら成立するものが、極端にすると崩れる。
その崩れる地点に、本質が出る。


第五操作|何かを抜いた場合を考える


次に、欠けさせる。

これは私の思考の中でも、かなり重要な操作だと思う。

薬がなければどうなるのか。
現代医療がなければどうなるのか。
帝王切開がなければ、自分は生まれてこられたのか。
保育器がなければ、生後一ヶ月を越えられたのか。
石化中に意識を飛ばしたら、千空は楽になったのか。
外部基準がなければ、秒数を数えることに意味はあるのか。
日常にサボりや気分転換がなければ、自我は保てるのか。

何かがあるとき、それは当たり前に見える。

だが、それを抜いた瞬間、初めてそれが何を支えていたのかが見える。

現代人は、自分の身体が昔の人より強くなったように思っている。

だが、薬、ワクチン、手術、麻酔、輸液、抗生物質、保育器、帝王切開、衛生環境を抜いたらどうなるのか。

そのとき見えてくるのは、人間の身体そのものが劇的に強くなったということではない。

人間の脆さを支える外部装置が増えたということである。

欠けさせる思考は、少し残酷である。

しかし、何かを抜いたときにこそ、見えなかった支柱が露出する。

人は何によって生きているのか。
何に支えられているのか。
何がなければ崩れるのか。

それを知るには、一度欠けさせてみる必要がある。


第六操作|別の領域に移してみる


ある程度まで掘ったら、別の領域へ移す。

江戸時代の薬の話は、現代医療の話へ移る。

Dr.STONEの文明再建は、noteに思考を保存する話へ移る。

千空の知識継承は、自分が記事を書く意味へ移る。

時代劇の高額薬は、命に値段がつく社会構造へ移る。

これは、ただの連想ではない。

別の領域に移したときにも、同じ構造が残るかを見る。

江戸の町医者が薬研で粉にしていたものと、現代人が頼る錠剤や注射や手術は、見た目にはまったく違う。

だが、どちらも人間の弱さを外部から支えるものだと考えれば、同じ構造を持っている。

千空が文明のレシピを記録することと、私がnoteに自分の思考を書くことも、内容は違う。

だが、一人の脳内にあるものを外へ保存し、未来へ渡すという点では似ている。

別の領域へ移すことで、話は雑学ではなくなる。

薬の話が、身体の話になる。
身体の話が、制度の話になる。
制度の話が、文明の話になる。
文明の話が、自分の文章の話になる。

領域を移すことで、個別の出来事の奥にある共通構造が見える。


第七操作|別の概念枠に置き換える


次に、対象を別の枠に置き換える。

江戸時代の高額薬は、医薬品ではなく、希望の商品として見る。

おっかあの病気は、病名ではなく、生活に削られた身体として見る。

石神千空の凄さは、IQではなく、文明のレシピを保持する能力として見る。

Dr.STONEは、科学漫画ではなく、文明再建神話として見る。

noteは、発信ではなく、思考の保存として見る。

対象そのものは変わらない。

しかし、置く棚を変えると、意味が変わる。

高額薬を医学の棚に置けば、薬効の話になる。
経済の棚に置けば、命の値段の話になる。
家族の棚に置けば、貧しさの中で希望を買う話になる。

Dr.STONEを科学漫画として読めば、リアルな部分と無理な部分が見える。

文明再建神話として読めば、千空は知の英雄であり、司は武の英雄であり、大樹は体力の英雄になる。

同じ作品でも、枠を変えると別の顔が現れる。

私は、この置き換えをよく使う。

なぜなら、ものごとは一つの名前に閉じ込めると、かえって見えにくくなるからである。

名前を変える。
棚を変える。
概念枠を変える。

すると、対象の別の輪郭が見えてくる。


第八操作|遠いもの同士を融合する


別の領域へ移し、別の枠に置き換えたあと、遠いもの同士をつなげる。

江戸医学と現代医療。
時代劇と貧困。
薬と希望。
出産医療と人間の脆さ。
Dr.STONEと文明継承。
千空の記録とnoteの記事。
科学漫画と神話。
個人の経験と文明の構造。

一見すると離れているもの同士を重ねる。

ただし、無理やり似ていると言いたいわけではない。

遠いもの同士の間に、同じ構造があるかを見る。

たとえば、江戸時代の町医者と現代の病院は違う。

生薬と抗生物質も違う。
薬研と保育器も違う。

だが、どちらも人間の身体が自分だけでは越えられない局面に、外部から橋を架けるものだと考えれば、同じ構造に見える。

また、千空が文明の知識を残すことと、私がnoteに思考を書くことは、内容も規模もまったく違う。

だが、どちらも「個人の内部にあるものを外部化し、未来に渡す」という点ではつながる。

遠いものを融合すると、話の射程が広がる。

個人の話が、文明の話になる。
漫画の話が、記録の話になる。
薬の話が、希望の話になる。

融合とは、異なるものを混ぜることではない。

別々のものの奥に、同じ水脈を見つけることである。


第九操作|最後に前提を逆転する


最後に、前提をひっくり返す。

江戸時代の人は、薬がなくて死んだ。

では、現代人は薬なしで生きられるのか。

千空はロケットを作るべきだ。

いや、本当に作るべきなのは、千空がいなくてもロケットへ向かえる世界ではないのか。

石化中に意識を保つのは強さである。

しかし、意識を保つこと自体が自我を傷つける行為だったのではないか。

書くことは、誰かに読ませるための発信である。
いや、それ以前に、自分の思考を未来へ保存することではないのか。

反転とは、逆張りではない。

逆張りは、ただ反対を言うことだ。
反転は、前提そのものを裏側から見直すことだ。

江戸の薬の話をしていたはずなのに、最後には現代人の弱さが見える。

Dr.STONEの話をしていたはずなのに、最後には自分のnoteの意味が見える。

鎮痛薬の強さを比べていたはずなのに、最後には人間が痛みを何で処理しているのかという話になる。

この反転が起きると、記事は単なる知識ではなくなる。

読者が立っている場所に戻ってくる。

過去の話が、現在の話になる。
他人の話が、自分の話になる。
フィクションの話が、現実の話になる。

私は、おそらくこの反転を探している。

問いが本当に面白くなるのは、最後に自分たちの足元が揺れるときである。


第一の出口|一文の命題に圧縮する


九つの操作を通ったあと、私は最後に一文へ圧縮しようとする。

これは重要である。

考えは広げるだけでは散らばる。
分けるだけでは細かくなりすぎる。
融合するだけでは混ざりすぎる。

最後に、一文へ戻す必要がある。

たとえば、江戸の薬の話なら、こうなる。

進歩したのは、人間の身体ではない。人間の脆さを支える外部装置の方だった。

Dr.STONEの話なら、こうなる。

千空が本当に再建すべきものは、ロケットではない。千空がいなくてもロケットへ向かえる世界である。

noteの話なら、こうなる。

私は記事を書いているのではなく、自分という文明の断片を保存している。

この一文は、結論であると同時に、記事全体の芯である。

一文にできない思考は、まだどこかで散らばっている。

一文に圧縮できたとき、その問いは一度、形を持つ。

もちろん、その一文が絶対の真理というわけではない。

だが、少なくともその時点での到達点にはなる。


第二の出口|記事として読める形へ戻す


最後に、記事として読める形へ戻す。

ここで、思考はそのままでは出せない。

思考の順番と、読者が読める順番は違うからである。

実際の思考は、もっと飛ぶ。
戻る。
寄り道する。
矛盾する。
途中で別の話が入る。
問いが変形する。

だが、記事にするときは、読者が入れる入口が必要になる。

タイトルをつける。
副題をつける。
はじめにを書く。
章立てを作る。
具体例を置く。
途中で問いを深める。
最後に反転させる。
終章で命題に戻す。

この作業によって、思考は文章になる。

文章にするとは、思考を飾ることではない。

他人がたどれる道に整えることである。

そして同時に、未来の自分がもう一度たどれる道にすることでもある。

思考は、そのままでは消える。

記事にすることで、思考は外へ出る。


終章|谷博貴の思考法とは何か


ここまでをまとめるなら、谷博貴の思考法は、九つの操作と二つの出口でできている。

九つの操作とは、

具体的な疑問から入ること。
似たものを並べること。
同じところと違うところを分けること。
強弱や量を動かすこと。
何かを抜いた場合を考えること。
別の領域に移してみること。
別の概念枠に置き換えること。
遠いもの同士を融合すること。
最後に前提を逆転すること。

そして二つの出口とは、

一文の命題に圧縮すること。
記事として読める形へ戻すこと。

もっと短く言えば、こうなる。

分けて、ずらして、つなげて、ひっくり返す。

ただし、それだけでは少し足りない。

後世に残すなら、四つの標語だけではなく、九つの手順まで残した方がいい。

なぜなら、四つは思考の輪郭であり、九つは思考の運動だからだ。

私は、完成された答えを残したいわけではない。

むしろ、問いがどのように動いたのかを残したい。

何に違和感を持ち、何を並べ、何を分け、何を欠けさせ、どこへ移し、何に置き換え、何と融合し、どこで反転したのか。

それこそが、私の思考の跡である。

人間の思考は、放っておけば消える。

その時に見えていた構造も、言葉にしなければ流れていく。

だから書く。

それは、発信である前に保存である。
自己表現である前に記録である。
答えである前に、問いの運動である。

谷博貴の思考法とは、世界をそのまま受け取らず、対象に操作をかけ、背後の構造を露出させる方法である。

そして最後に、それを一文の命題へ圧縮し、記事として読める形へ戻すこと。

それが、私の思考を後世に残すための、ひとつの手順なのだと思う。

ただし、ここで一つだけ、まだ残る問いがある。

そもそも、こんな思考法を記事にして意味があるのか、という問いである。


あとがき|私の日常は、誰かの非日常かもしれない

果たして、

こんなことを記事にして意味があるのか。

いつも考える。

そんなことは誰でも知っているのではないか。

自分が当たり前だと思っていることは、世の中の常識から大きく外れているのではないか。

そう考えて書かなかった時期もある。

同じように考えている人もきっといると思う。

けれど、これはメタ認知の話なのだと思う。

人は他人の人生を生きられない。

だからこそ、私の日常はあなたの非日常になるのではないか。

それが、エンタメになるのか、教養になるのかはわからない。

心の支えになるのか、癒しや救いになるのか。

もしくは、傷つけることになるのか。

それもわからないけれど、

それでも書く。

私はどこまでいっても、これが普通だと思って生きている。


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