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存在とは、維持される流れである



副題

宇宙・地球・身体・国家から考える、関係の存在論

はじめに|存在するとは、そこにあることなのか


存在するとは、どういうことだろうか。

石がある。

川がある。

人がいる。

国家がある。

私たちは、それらを同じ「ある」という言葉で表現する。

けれど、石のあり方と、川のあり方は同じではない。

石は、その場にとどまっているように見える。

川は、絶えず水を入れ替えている。

人間の身体も、呼吸し、水を飲み、食物を取り込み、熱や老廃物を外へ出している。

国家も、人、食料、水、資源、情報、貨幣を絶えず動かしている。

それでも、川は川であり続ける。

人は人であり続ける。

国家は国家であり続ける。

中にあるものは動き、入れ替わり、失われている。

それなのに、ひとつの存在として認識され続けている。

だとすれば存在とは、

同じ物質を持ち続けることではないのではないか。

むしろ、

変化するものを通過させながら、一定の関係と形を保ち続けること

なのではないか。

存在とは、停止ではない。

維持された流れなのである。

第1章|存在には、いくつかのあり方がある


すべての存在を、同じ仕組みで説明することはできない。

石と炎と人間は、同じようには存在していない。

石は、比較的安定した物質構造として存在している。

炎は、燃料と酸素が供給され、熱と生成物が外へ出ているあいだだけ存在する。

人間は、物質を取り込み、変換し、循環させ、不要なものを排出しながら存在している。

この違いを大まかに分けるなら、存在には少なくとも三つの層がある。

第一は、物質として保たれる存在。

石や金属のように、構造そのものが比較的長く残るもの。

第二は、流れによって現れる存在。

炎、渦、波、川のように、物質が通過し続けることで形が現れるもの。

第三は、自らの流れを調整する存在。

生命や社会のように、外部との交換を制御し、内部の状態を一定の範囲へ戻そうとするもの。

人間は、単なる物質ではない。

単なる流れでもない。

流れを利用して、自分自身を維持する存在

である。

国家や組織も同じだ。

そこに物や人が集まっているだけでは、社会は成立しない。

人や資源や情報を動かし、その流れを調整する仕組みがあって初めて、一つの社会として持続する。

したがって、

存在とは維持される流れである

という命題は、すべての物体が液体のように流れているという意味ではない。

特に生命や社会のような開かれた系において、

存在とは、外部との交換によって自らの構造を保ち続ける過程である

という意味である。


第2章|流れを生むのは、差である


水は、高い場所から低い場所へ流れる。

熱は、温度の高い場所から低い場所へ移る。

空気は、圧力差によって動く。

物質は、濃度差に応じて移動する。

血液は、心臓が作る圧力差によって循環する。

人もまた、必要と不足、需要と供給、現在と未来の差によって動く。

流れの背後には、必ず差がある。

差がなければ、移動は起きない。

すべての温度が同じなら、熱は流れない。

水面の高さが同じなら、水は動かない。

体内と体外のあいだに濃度差がなければ、物質の交換も起きにくい。

宇宙の熱的死が意味するのも、エネルギーが完全になくなることではない。

利用可能な差が失われ、仕事を生み出す大きな流れが成立しなくなることである。

つまり存在を動かしているのは、物質の総量だけではない。

差があることによって、物質やエネルギーが移動できること

である。

だが、差が大きければ大きいほどよいわけではない。

水位差が大きすぎれば、洪水になる。

温度差が大きすぎれば、組織は損傷する。

血圧が低すぎれば循環できず、高すぎれば血管を傷つける。

需要が急増しすぎれば、物流や生産は追いつかない。

流れがなければ存在を維持できない。

しかし、流れが強すぎても存在は壊れる。

だから存在に必要なのは、単なる流動ではない。

構造が壊れない範囲に、流れを調整すること

である。


第3章|境界とは、閉じる壁ではない


存在が存在として区別されるためには、境界が必要になる。

身体には皮膚がある。

細胞には細胞膜がある。

国家には領域や制度がある。

川には流域や河岸がある。

境界がなければ、内側と外側を区別できない。

しかし、完全に閉じた境界では、生命は維持できない。

酸素も入らない。

水も栄養も入らない。

熱も老廃物も外へ出せない。

生命の境界は、外部を拒絶するためだけの壁ではない。

何を入れ、何を出し、何を残すかを選ぶ膜

である。

細胞膜は、物質の移動を選択する。

腎臓は、水分や電解質を回収し、不要なものを尿へ送る。

皮膚は、身体を外界から守りながら、汗を外へ出す。

国家も、食料、資源、人、情報、貨幣を無制限に通すわけではない。

制度や市場を通じて、流れを選別する。

存在するとは、外部から独立することではない。

外部とつながりながら、そのつながり方を選び続けることである。

境界は、関係を断つものではない。

関係を調整可能にするための構造

なのである。


第4章|地球は、水を持つことで生命を支えているのではない


地球には大量の水がある。

しかし、その大部分は海水であり、人間がそのまま飲むことはできない。

水が存在していることと、生命が利用できることは同じではない。

海水から水が蒸発する。

水蒸気が空へ上がる。

雲が生まれる。

雨や雪として地上へ戻る。

川や地下水となり、再び海へ流れる。

この循環によって、水は場所と状態を変えながら、生命が利用できる形へ繰り返し変換される。

地球が水の惑星であるのは、単に多くの水を持っているからではない。

水を移動させ、分離し、再配分する仕組みを持っているから

である。

もし水が海に固定されたままなら、陸上の生命は現在の形では成立しにくい。

雨が降っても、すべてが短時間で海へ流れ、どこにも保持されなければ、利用は難しい。

水は、存在するだけでは資源にならない。

流れ、貯められ、分配され、再び循環へ戻されることで資源になる。

ここで重要なのは、水循環が何かを完全に元へ戻しているわけではないということだ。

同じ水滴が、同じ場所へ戻るわけではない。

海から上がった水は、別の雲になり、別の土地へ降る。

途中で土や生物や都市を通り、別の物質を含んで戻る。

循環とは、同じものがそのまま帰ってくることではない。

変化したものが、別の形で再び流れへ参加すること

である。


第5章|身体は、小さな塩の惑星である


人間の身体も、水を含んでいる。

しかし、身体は単なる水の袋ではない。

血液や細胞間液には、ナトリウム、塩化物、カリウムなどのイオンが溶けている。

神経が信号を伝えること。

筋肉が収縮すること。

血液が循環すること。

細胞の内外に水を適切に分配すること。

それらは、水と塩分の量だけでなく、その濃度と分布によって成り立っている。

身体が守っているのは、水の総量ではない。

塩の総量でもない。

水と塩が、どこに、どの程度の濃度で存在するか

である。

暑い場所で身体を動かせば、筋肉は熱を生む。

環境からも熱が入る。

身体は、その熱を外へ逃がすために汗を出す。

汗の原料は、身体の外に余っていた水ではない。

循環や細胞の維持に使われている体液である。

身体は体温を守るために、自分の水と塩を皮膚へ送り出す。

人間は、自らの内部に自分を絞る仕組みを持った、生きた雑巾である。

だが、汗を出すだけでは身体は冷えない。

皮膚に出た汗が蒸発し、熱を外へ運んで初めて冷却が成立する。

湿度が高ければ、汗は蒸発しにくい。

身体は大量の水分を失いながら、十分に冷えないことがある。

流れは起きている。

しかし、その流れが目的を果たしているとは限らない。

ここに、流れと機能の違いがある。

動いていることと、正しく循環していることは同じではない。


第6章|不足も過剰も、関係を壊す


大量に汗をかけば、身体から水分と塩分が失われる。

血液の液体成分が減れば、心臓は同じ量の血液を送りにくくなる。

筋肉には酸素を届けなければならない。

皮膚には熱を運ばなければならない。

限られた血液を、筋肉と皮膚の両方へ配る必要がある。

脱水によって失われるのは、単なる水ではない。

身体が複数の要求を同時に満たすための余白

である。

力んだ箇所から順につるという現象も、局所だけの問題ではないのかもしれない。

全身の水分、塩分、熱、疲労の収支が崩れ、筋肉のつりやすい状態が作られる。

そこへ局所的な力みが加わり、使われた筋肉から限界を超える。

原因は全身にあり、発症の引き金は局所にある。

局所の痛みは、全身から届いた通知なのである。

だが、失ったからといって、水を多く戻せばよいわけでもない。

身体から出ていく量を超えて水を飲み続ければ、今度は体液が薄まりすぎる。

水分不足と水分過剰は、正反対の状態である。

それでも、どちらも身体を壊す。

必要なのは、少なさを避けることだけではない。

多さを目指すことでもない。

流入と流出、濃度と分布の釣り合いを戻すこと

である。

身体は、量を最大化しているのではない。

関係を維持している。


第7章|恒常性とは、同じ状態へ戻ることではない


恒常性という言葉から、身体がいつも同じ状態に保たれている姿を想像することがある。

しかし実際には、身体は絶えず変動している。

体温は少しずつ変わる。

血圧も心拍数も変わる。

水分量も塩分濃度も、食事や運動によって揺れる。

恒常性とは、変化を起こさないことではない。

変化が壊れる領域まで進まないよう、許容範囲へ戻し続けること

である。

しかも、その調整には代償が必要になる。

体温を守るために、水分を失う。

循環を守るために、心拍数を上げる。

水分を守るために、尿量を減らす。

エネルギーが不足すれば、蓄えを使う。

恒常性は、身体を無傷で保存する魔法ではない。

あるものを守るために、別のものを使う仕組みである。

したがって、正常に動いていることと、安全であることは同じではない。

汗が出ているのは、身体の調節機能が働いている証拠である。

同時に、身体が水分や塩分を消費し続けている証拠でもある。

維持とは、何も失わないことではない。
失いながら、壊れない範囲へ戻し続けることなのである。


第8章|国家もまた、巨大な循環器官である


国家も、水を持っているだけでは社会を維持できない。

雨が降る。

川が流れる。

地下水がある。

それだけでは、家庭や農地や工場へ水は届かない。

ダムが水を貯める。

浄水場が水質を整える。

水道管が都市へ運ぶ。

農業用水路が田畑へ配る。

下水処理場が、使用後の水を処理して自然へ戻す。

自然の水は、制度と技術を通ることで社会の水になる。

国家は巨大な水槽ではない。

巨大な配管と変換装置に近い。

食料も同じである。

水があれば、食料が生まれるわけではない。

農地。

農業者。

種や苗。

肥料や飼料。

機械。

保存。

加工。

物流。

それらがつながって初めて、水は食料へ変換される。

資源とは、物質単体のことではない。

その物質を必要な機能へ変換できる回路まで含んだもの

である。

日本は、水を保有することで水国家になっているのではない。

国内の水を貯め、運び、浄化し、配り、戻す仕組みを維持し、さらに国外の水によって生産された食料を輸入することで、水の豊かさを成立させている。

しかし、流れに依存する豊かさは、流れが止まれば失われる。

輸送。

燃料。

為替。

農業者。

水路。

設備。

国際関係。

どこかが途切れれば、水が存在していても生活や食料へ変換できない。

国家もまた、

流れを止められない存在

なのである。


第9章|局所の破綻は、全体の異常を知らせる


身体では、筋肉がつる。

尿が極端に減る。

頭が痛くなる。

判断を誤る。

それらは局所的な症状に見える。

しかし背後には、水分、塩分、血流、熱、疲労といった全身の収支異常があることも多い。

国家でも同じことが起きる。

水道管が破裂する。

農業用水路を管理する人がいなくなる。

耕作放棄地が増える。

一部の食料価格が上がる。

地方の交通や医療が維持できなくなる。

これらは個別の故障に見える。

しかし、それぞれが、

人口。

資金。

人材。

設備。

物流。

エネルギー。

制度。

といった全体の余白が失われた結果である場合がある。

身体では、最も負荷のかかった筋肉から異常が現れる。

社会では、最も余力の少ない地域や産業から機能が止まる。

原因は全体にあり、破綻は局所から始まる。

局所の異常を、局所だけの責任として処理すれば、全体の収支異常を見逃す。

筋肉がつった人に、根性がないと言う。

水を飲めなかった労働者に、自己管理が悪いと言う。

農業が続けられない地域に、努力が足りないと言う。

それでは、症状を出した場所へ、全体の問題を押しつけているだけである。

局所の破綻は、弱い部分の罪ではない。

全体が、そこを通して限界を知らせている。


第10章|同じであり続けるとは、何が同じなのか


川の水は入れ替わる。

身体を構成する物質も入れ替わる。

国家を構成する人々も世代交代する。

それでも、私たちは同じ川、同じ人、同じ国家と呼ぶ。

では、何が同じなのだろうか。

物質ではない。

一つ一つの水分子でもない。

細胞のすべてでもない。

そこに属する個人でもない。

同じなのは、

* 境界
* 関係
* 配置
* 記憶
* 機能
* 継承される規則
* 流れを調整する仕組み

である。

つまり存在の同一性は、物質だけに宿っているのではない。

物質が入れ替わっても維持される、関係の型

に宿っている。

ただし、関係の型も完全に固定されているわけではない。

人は成長する。

川は流路を変える。

国家は制度を変える。

変わりすぎれば別の存在になる。

しかし、何も変わらなければ環境に適応できず、やはり維持できない。

存在するためには、変わらなければならない。

しかし、存在であり続けるためには、すべてを変えてはならない。

ここに、存在の根本的な矛盾がある。

存在とは、変化しながら同じであり続けること

である。

同一性とは、変化の拒否ではない。

変化を引き受けながら、何を残すかを選び続けることである。


第11章|存在は、崩壊を止めているのではない


宇宙の中で、すべての構造は永遠ではない。

星は燃料を使う。

生命は老いる。

建物は劣化する。

制度は現実とずれていく。

関係は放置すれば変質する。

存在は、崩壊しない物質によって成立しているのではない。

崩れ続けるものを、修復し、交換し、作り直すことで成立している。

身体は、傷ついた細胞を入れ替える。

骨も皮膚も血液も更新される。

国家は、道路や水道管を補修する。

制度を変える。

人材を育てる。

関係もまた、言葉を交わし、誤解を修正し、距離を調整することで維持される。

維持とは、崩壊の不在ではない。

崩壊よりも速く、修復を続けること

である。

この意味で、老いとは単なる時間の経過ではない。

修復や変換の速度が、損耗の速度へ追いつきにくくなることでもある。

社会の衰退も同じである。

一つの大事故によって突然始まるとは限らない。

設備の更新が遅れる。

技能が継承されない。

小さな不具合が放置される。

修復より損耗が少しずつ上回る。

そして、長く保たれているように見えた構造が、ある日、局所から崩れる。

存在は、崩壊を止めているのではない。

崩壊へ向かう時間の中で、崩壊を遅らせ続けている。


第12章|生命とは、流れを選ぶことである


すべてを取り込めばよいわけではない。

すべてを排出すればよいわけでもない。

水を多く飲めばよいわけではない。

塩を完全に避ければよいわけでもない。

国家がすべてを自給すればよいわけでもなければ、すべてを外部へ依存してよいわけでもない。

重要なのは、

何を受け取るのか。

何を外へ出すのか。

何を内部に残すのか。

何を変換するのか。

どの流れを速め、どの流れを抑えるのか。

という選択である。

生命は、外部との交換を止められない。

しかし、外部へ完全に開けば、内部の秩序を失う。

完全に閉じれば、必要なものが入らず、不要なものが蓄積する。

生命とは、

開くことと閉じることのあいだで、流れを選び続ける存在

である。

これは身体だけの話ではない。

人間関係も同じである。

他者を完全に拒絶すれば、孤立する。

すべてを受け入れれば、自分の境界を失う。

社会も同じである。

外部との交換なしには維持できない。

しかし、依存先が一つしかなければ、その流れが止まったときに崩れる。

存在を維持するとは、最大限に流すことではない。

壊れない流れ方を設計すること

なのである。


終章|存在とは、なり続けることである


私たちは、物として存在しているように見える。

輪郭がある。

名前がある。

身体がある。

住所がある。

履歴がある。

けれど、その内部では、絶えず何かが動いている。

水が入る。

血液が流れる。

熱が生まれる。

汗が出る。

酸素が入り、二酸化炭素が出る。

食物が身体へ変わる。

細胞が生まれ、失われる。

記憶が書き換えられる。

他者との関係が結び直される。

国家も同じである。

水が動く。

食料が運ばれる。

人が働く。

情報が伝わる。

制度が更新される。

世代が交代する。

地球もまた、水と熱と物質を循環させている。

宇宙の中に生じた局所的な秩序は、停止することで存在しているのではない。

流れを利用して、一時的に形を保っている。

私たちは幻なのかもしれない。

ただし、存在しない幻ではない。

流れが維持されているあいだ、現実として立ち上がっている幻

である。

存在は完成品ではない。

一度できあがり、そのまま保存される物でもない。

存在とは、

壊れながら修復され、

失いながら補われ、

変わりながら継承され、

外部とつながりながら境界を保つ、

終わることのない調整である。

川が川であるのは、同じ水を持ち続けているからではない。

水が流れ続けるあいだ、川という関係が維持されているからである。

身体が身体であるのも、同じ物質を持ち続けているからではない。

物質とエネルギーを通過させながら、身体という秩序を作り直し続けているからである。

国家が国家であるのも、同じ人間や制度を保存しているからではない。

人と資源と記憶を受け渡しながら、社会という関係を維持しているからである。

存在するとは、そこに止まり続けることではない。

自分であり続けるために、変わり続けること

なのである。


最終定義


存在とは、

固定された物質の塊ではない。

外部から物質とエネルギーを受け取り、

内部で移動させ、

必要な形へ変換し、

不要なものを外へ出し、

崩れた関係を調整しながら、

一つの形として識別され続ける過程である。

流れがなければ、存在は維持できない。

だが、流れが強すぎても、存在は壊れる。

だから存在とは、

差によって生まれた流れを、

境界と調整によって壊れない範囲へ保ち、

崩壊よりも速く自らを作り直し続けることである。

存在とは、そこにあるものではない。

維持される流れの中で、何度も自分になり直しているものなのである。

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