生まれてきた責任とは何か
副題:それは存在を引き受ける構え
人生に意味はない。
その言葉を、どれほど多くの哲学者が繰り返してきただろう。
シオランは、人生に意味があるという前提を疑い続けた哲学者だった。
ショーペンハウアーは、世界を盲目的な意志の働きとして捉え、人間存在の根に苦を見た。
どちらも、救いのない世界での誠実な答えだと思う。
だが私は、その二人のあいだに立っている。
人生の意味を否定しながらも、どこかでそれを引き受けようとする位置にいる。
“生まれてきた責任”という言葉は、そこから立ち上がる。
私たちは、生まれることを選べない。
気づいたときには、すでに世界の内部に投げ込まれている。
選択の余地がないという意味で、誕生は暴力的ですらある。
「好きで生まれてきた訳ではない。」
そう考える人がいるのも納得してはいる。
それでも、生きるとはその「回避不能な暴力」をどう受け取るかの問題であり、
「生まれてきた責任」とは、自分が存在してしまったことをどう引き受けるかの構えのことだと私は思う。
生まれてしまったことを、ただ押しつけられた代償として背負うのではなく、ここに在ることへの応答として支払っていく。
代償は受け身の痛みだが、対価は能動の応答である。
その違いが、存在を受け入れるか、引き受けるかの分岐になる。
それは誰かに対する責任転嫁ではない。
「なぜ私だったのか」「私でなければならなかった」のかという地点から思索は始まり、
「私ならば、どう生きるのか」という場所にたどり着く。
それは、自身への覚悟の表れであり、
社会や道徳の外にある、より原初的な責任だ。
つまり、「人生の意味は外から与えられるものではなくて、自分で見出すもの」である。
もっと言えば、
「自分の足で立って生きる。」
ということに繋がるのだろう。
不思議とこのことは、言葉にも通じる。
「借り物の言葉だけではなくて、自分の言葉でも話す。」
そう考えると、「他人に期待をする」というのは、「生まれてきた責任」を人に少し押し付ける行為なのかもしれない。
これは、使命の話ではなく、
「私は在る」という事実そのものが、世界との関係を生じさせてしまっているという話である。
存在はすでに関係であり、沈黙すらも応答の一形態になる。
何をしても良いし、何もしなくても良い。
役割に殉じても良い、放浪の旅に出ても良い。
それらは全て自らが為したことなのだから。
自らが成したことは、全て自己へと回帰する。
その応答性を自覚したとき、人ははじめて「責任感」を覚える。
責任を引き受けるとは、
偶然に与えられた生を、自らの物語として語り直すことだ。
何を語り、何を為し、何を遺すのか、
この語り直しの中で初めて、真の自由が立ち上がる。
真の自由とは、束縛のなさではなく、「この偶然を自分の言葉で意味づける力」だ。
そしてその自由が、再び責任を生む。
自由を語る時に人は、社会に接続する。
それは、社会 法律 倫理 金銭 仕事 家庭
いずれにしても自由を語るとは、他者という鏡に触れることだ。
責任には、応答がついてまわる。
応答とは、応える義務である。
よって責任と自由は、対立ではなく円環である。
自由が拡がるほど、責任は深まり、
責任を深く生きるほど、自由は静かに澄んでいく。
では、幸福はどこにあるのか。
幸福とは、自由と責任が一瞬だけ重なり合うときに生まれる微かな震えのようなものだと思う。
それは達成でも充足でもなく、
「これでいい」という短い呼吸の瞬間に現れる。
自由と責任の均衡点は永続しない。
けれど、その刹那を知ってしまった者は、もう世界を恨めなくなる。
幸福とは、世界を赦す一瞬の同意だ。
だから人は、その一瞬を探すのだろう。
人は誰しも、いつか死に回帰する。
それは、人類に許された数少ない平等でもある。
死は罰ではなく、整合の終着点だ。
私は「生まれてきた責任」を果たすとは、この整合へ向かうことだと考えている。
生と死を対立としてではなく、
ひとつの円の両端として受け入れるとき、
人ははじめて“正”の方へ歩み出す。
正とは、善悪の正義ではなく、
存在の歪みをまっすぐに整えるという意味での“正”
死とは、そのまっすぐさが完成する場所である。
私は信じている。
生まれてきた責任とは、苦行でも使命でもなく、
「この世界に現れた自分を、最後まで見届けること」だ。
それは、すべてを理解することではなく、
理解できないままでも、生をまっすぐに受け止めること。
そこに倫理の芽生えが生じる。
世界を選べなかった者が、それでも世界を愛そうとするその姿勢
そこにしか、哲学の根はないと思う。
この文章を閉じるとき、
私はまた「責任」を感じている。
語ってしまった以上、語りを生きなければならないという責任を。
そしてそれが、私にとっての「生まれてきた理由」なのだろう。
最終命題
生まれてきた責任とは、世界に現れてしまった自分を、最後まで見届けることである。
そして、その偶然の生を、自分の言葉で語り直し、その語りを生きようとすることなのだ。
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