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共同体との関わり方の六態度

副題  
適合・順応・拒絶・排他・離脱・変革のあいだで、自分の倫理を失わずに生きるために

はじめに


人は共同体なしには生きられない。

職場。  
家庭。  
学校。  
地域。  
友人関係。  
趣味の集まり。  
会社。  
部署。  
班。  
現場。

人はどこかの場に入り、そこにある人間関係の中で生きていく。

けれど、人が入るのは人間関係だけではない。

そこには、その場だけの普通がある。

何をすれば気が利くのか。  
何をすれば余計なことになるのか。  
どこまで踏み込めば親切なのか。  
どこから先が干渉なのか。  
冗談として許される言葉はどこまでか。  
沈黙は配慮なのか、拒絶なのか。  
質問することは確認なのか、無能の証明なのか。  
助けることは優しさなのか、成長を奪うことなのか。

同じ行為でも、場が変われば意味が変わる。

ある場所では丁寧さだったものが、別の場所では遅さになる。  
ある場所では正しさだったものが、別の場所では火種になる。  
ある場所では優しさだったものが、別の場所では甘やかしになる。  
ある場所では黙っていることが大人の態度でも、別の場所では責任の放棄になる。

つまり、人は共同体に入ったとき、仕事やルールだけを覚えているのではない。

その場で何が普通とされるのか。  
何が浮くのか。  
何が許されるのか。  
何が嫌われるのか。  
何に合わせるべきなのか。  
何には合わせてはいけないのか。

そうした見えない地図を、少しずつ身体に入れている。

このとき、人は大きく六つの態度を取る。

適合
順応
拒絶
排他
離脱
変革

この六つは、共同体に対する人間の基本姿勢である。

ただし、どれか一つだけが正しいわけではない。

適合だけでは、自分を失う。  

順応だけでは、場のおかしさまで普通になる。  

拒絶だけでは、どの共同体にも入れなくなる。  

排他に向かいすぎれば、相互承認が壊れる。  

離脱だけでは、どこにも根を張れない。  

変革だけでは、常に場と戦うことになる。

大切なのは、どれか一つに固定することではない。

その場に対して、どの態度をどれくらい持つのか。

この配分を調整できること。

それが、共同体の中で生きる成熟なのだと思う。


第一章 適合とは、外側の行動を場に合わせることである


適合とは、まず外側の行動を場に合わせることである。

ここではこう挨拶する。  
ここではこの順番で確認する。  
ここではこの人に先に話を通す。  
ここではこの言葉を使わない。  
ここではこの距離感で関わる。  
ここでは勝手に判断せず、まず報告する。

そういう場の作法を覚えること。

それが適合である。

適合は、内面まで染まることではない。

自分の価値観をすべて捨てることでもない。

とりあえず、その場で動けるようにすること。  
その場の中で、無用な摩擦を起こさずに存在できるようにすること。

新しい共同体に入ったとき、人はまず適合を求められる。

新しい職場に入った人は、いきなり自分のやり方だけで動くことはできない。  
新しい部署に配属された人は、まずその部署の流れを覚える必要がある。  
新しい学校に入った人は、そこにある空気や距離感を読む必要がある。

適合は、共同体に入るための入口である。

けれど、適合には危うさもある。

外側の行動を合わせることが、いつの間にか自分を消すことに変わることがある。

本当は違和感があるのに、場に合わせて笑う。  
本当はおかしいと思っているのに、波風を立てないために黙る。  
本当は負担が大きいのに、周囲に合わせて引き受ける。  
本当は断りたいのに、ここでは断れないと思い込む。

このとき、適合は自己保護ではなく、自己消失に変わる。

だから適合には、距離が必要である。

合わせる。  
けれど、飲まれない。

外側の行動を整える。  
けれど、内側の違和感まで消さない。

適合とは、共同体に入るための技術である。

だが、それは自分を失うための技術ではない。


第二章 順応とは、場の倫理を内面化していくことである


順応とは、場の倫理を内面化していくことである。

最初は違和感があったことも、だんだん普通に見えてくる。

ここではこういうものだ。  
これがこの現場のやり方だ。  
みんなそうしている。  
昔からこうだった。  
これで回っている。

そう考えるようになる。

適合が外側の行動を合わせることだとすれば、順応は内側の感覚が場に馴染んでいくことである。

順応は悪いものではない。

むしろ、人が共同体の中で長く生きるには、ある程度の順応が必要になる。

毎日すべてを疑っていたら、人は疲れてしまう。  
毎回すべてを自分の価値観で判断していたら、共同体の中で動けない。  
仕事も人間関係も、ある程度はその場の普通を身体に入れなければ進まない。

習熟とは、手順を覚えることだけではない。

その場では何を優先するのか。  
どこで確認するのか。  
どこまで自分で判断するのか。  
どの失敗はすぐ報告するのか。  
誰に声をかけるのか。  
何を放置してはいけないのか。

そういう場の倫理を身体に入れることでもある。

だから順応は、人を楽にする。

いちいち考えなくても動けるようになる。  
その場の流れが読めるようになる。  
何をすればよいか、身体が先に反応するようになる。

けれど、順応には最も深い危険もある。

場がおかしければ、おかしさまで普通に見えてしまう。

誰かを馬鹿にする冗談が普通になる。  
ミスを笑うことが教育になる。  
残業する人が偉いという空気が普通になる。  
質問しにくい文化が当たり前になる。  
困っている人を放置することが、大人の態度になる。  
誰か一人に負担が集まることが、いつものことになる。

最初は違和感があったはずなのに、いつの間にか何も感じなくなる。

ここが順応の怖さである。

人は、異常にも慣れる。

だから順応には、時々の点検が必要になる。

自分は何に慣れてしまったのか。  
最初に感じていた違和感は、どこへ行ったのか。  
この場の普通は、本当に普通なのか。  
ただ長く続いているだけではないのか。  
誰かが我慢しているから成り立っているだけではないのか。

順応とは、共同体の中で生きるために必要な能力である。

しかし、順応しすぎると、人は場の異常を自分の倫理として持ち帰ってしまう。


第三章 拒絶とは、自分の基準を失わずに異議を持つことである


拒絶とは、この場の倫理はおかしいと判断することである。

それは単なる反抗ではない。

自分の基準を失わないための態度である。

ここでは普通でも、自分は受け入れられない。  
みんなが笑っていても、自分は笑えない。  
昔からこうでも、自分は正しいと思えない。  
これで回っていても、誰かが壊れているなら見過ごせない。

そう感じること。

それが拒絶である。

拒絶できない人は、場に飲まれる。

その共同体の普通を、すべて正しいものとして受け入れてしまう。

けれど、人間には自分の倫理がある。

どれだけ場に合わせても、越えてはいけない線がある。  
どれだけ空気を読んでも、従ってはいけない普通がある。  
どれだけ長く続いていても、間違っている文化はある。

拒絶は、その線を守る。

たとえば、誰かの失敗を笑うことが普通になっている場がある。  
見て覚えろという言葉で、説明責任を放棄している場がある。  
弱い立場の人にだけ厳しく、強い立場の人には何も言えない場がある。  
上司の機嫌が、実質的なルールになっている場がある。  
沈黙が、配慮ではなく加担になっている場がある。

そのとき、人は拒絶しなければならない。

ただし、拒絶は簡単ではない。

共同体は、自分たちの普通を守ろうとする。

その場で長く続いてきたやり方を否定されると、人は自分の過去まで否定されたように感じる。  
自分たちの普通を疑われると、共同体は防衛に入る。  
だから拒絶には、反発が返ってくる。

空気が読めない。  
面倒くさい。  
堅い。  
正論ばかり言う。  
一人だけ浮いている。  
現場をわかっていない。

そう言われることがある。

拒絶とは、自分の倫理を守る行為であると同時に、孤立の危険を引き受ける行為でもある。

だから拒絶には、力がいる。

怒りだけでは足りない。  
正しさだけでも足りない。  
言葉がいる。  
タイミングがいる。  
距離感がいる。  
そして、どこまで拒絶するのかを見極める必要がある。

すべてを拒絶すれば、どの場にもいられなくなる。

しかし、何も拒絶しなければ、自分が消えていく。

拒絶とは、場の中で自分の基準を失わないための抵抗である。


第四章 排他とは、同じ場にいながら相互承認が壊れることである


排他とは、同じ場にいながら相互承認が壊れることである。

排他には二つある。

自分が他者を受け入れない場合。  
そして、多数から自分が受け入れられない場合。

どちらも排他である。

排他は、必ずしも露骨ないじめとして現れるわけではない。

話しかけない。  
教えない。  
目を合わせない。  
情報を渡さない。  
その人だけ場の流れから外す。  
その人がいないものとして扱う。  
その人の発言だけ軽く扱う。

こういう形で、排他は静かに起きる。

あるいは逆に、本人が周囲を見下し、誰とも接続しようとしない場合もある。

この場の人間はレベルが低い。  
自分だけが正しい。  
周囲は何もわかっていない。  
合わせる価値がない。

そう思い込んだとき、本人の側からも排他は始まる。

排他とは、物理的に同じ場所にいながら、倫理的には居場所がない状態である。

これはかなり苦しい。

なぜなら、目の前に人はいるのに、関係が成立していないからである。

同じ職場にいる。  
同じ班にいる。  
同じ教室にいる。  
同じ家庭にいる。  
同じグループにいる。

けれど、自分はその場の一員として扱われていない。

この状態は、人を深く疲れさせる。

場の倫理が合わない人は、無能とは限らない。  
悪人とも限らない。  
ただ、その共同体の普通と、その人の普通がうまく噛み合っていないだけのことがある。

しかし共同体はしばしば、噛み合わなさを本人の問題として処理する。

あの人は浮いている。  
あの人は変わっている。  
あの人は扱いにくい。  
あの人は空気が読めない。

そうして、場の側の問題は見えなくなる。

ここに多数決の怖さがある。

多数が普通を握っている場では、少数の違和感は異常として扱われやすい。

けれど、多数がいるから正しいとは限らない。

その場の普通に合わない人がいるとき、問うべきことは二つある。

その人は、本当に共同体を壊しているのか。  
それとも、共同体の普通が狭すぎるのか。

排他が起きたとき、責任は一方向だけにない。

排他する側。  
排他される側。  
沈黙する周囲。  
その排他を許している場の倫理。

それらを見なければならない。

排他とは、人間関係の問題であると同時に、場の器の問題でもある。


第五章 離脱とは、この場では生きられないと判断して離れることである


離脱とは、その共同体から離れることである。

ここにはいられない。  
この場に居続けると壊れる。  
この倫理には合わせられない。  
これ以上ここにいると、自分が自分でいられなくなる。

そう判断して場から出ること。

それが離脱である。

離脱は逃げではない。

時には、最も現実的な自己防衛である。

人は、どの場にも適合できるわけではない。  
どの共同体にも順応すべきではない。  
どんな場所でも努力すれば居場所になるわけではない。

壊れる場はある。

正しさが通らない場。  
善意が比較に変わる場。  
雑談が支配に変わる場。  
沈黙が加担に変わる場。  
ミスを言い出せない場。  
弱い立場の人だけが責任を負わされる場。  
誰かの機嫌が、全員の行動を支配している場。

そういう場に居続けることが、成熟とは限らない。

耐えることが美徳になる場もある。  
しかし、耐えることでしか保てない関係は、人を少しずつ壊すことがある。

離脱には、勇気がいる。

なぜなら、離脱する人はしばしば裏切り者にされるからである。

途中で投げ出した。  
我慢が足りない。  
責任感がない。  
協調性がない。  
恩を忘れた。  
自分だけ逃げた。

そう言われることがある。

けれど、離脱はいつも放棄ではない。

自分の限界を正確に見ることでもある。

この場では、自分の善意が腐る。  
この場では、自分の正しさが火種にされる。  
この場では、自分の沈黙が利用される。  
この場では、これ以上関わると自分が壊れる。

そう判断できることは、弱さではない。

ただし、離脱だけに偏ると、人はどこにも根を張れなくなる。

少し合わないだけで離れる。  
違和感があるたびに逃げる。  
摩擦が起きるたびに関係を切る。  
どの共同体にも入らず、どの場にも居場所を作れなくなる。

これもまた危うい。

だから離脱は、最後の選択肢であると同時に、必要な選択肢でもある。

大切なのは、離脱を恥じないこと。  
そして、離脱を癖にしないこと。

人は場から離れることで、自分を守ることがある。

離脱とは、共同体を憎むことではない。

その場ではもう生きられないと認め、自分の命と倫理を別の場所へ移すことである。


第六章 変革とは、共同体の普通そのものを書き換えようとすることである


変革とは、共同体の普通そのものを書き換えようとすることである。

これは六つの態度の中で、最も難しい。

適合は、自分を場に合わせる。  
順応は、場の倫理を内面化する。  
拒絶は、場の倫理に異議を持つ。  
排他は、承認が壊れる。  
離脱は、場から離れる。

しかし変革は、場そのものを変えようとする。

ここではこうだった。  
でも、これからはこうした方がいい。  
今まではそれで回っていた。  
けれど、これからもそれでいいとは限らない。  
誰も文句を言わなかった。  
でも、それは健全だったからではなく、言えなかっただけかもしれない。

そう問いかけること。

それが変革である。

変革には力がいる。

信用がいる。  
言葉がいる。  
記録がいる。  
時間がいる。  
味方がいる。  
反発を受ける覚悟がいる。

なぜなら、共同体の普通は、長く続いているほど自然現象のような顔をするからである。

昔からこうだった。  
みんなこうしている。  
これで回っている。  
現場ではこれが普通だ。  
いちいち変えていたら仕事にならない。

そう言われる。

けれど、長く続いていることと正しいことは違う。

事故が起きていないことと、安全であることは違う。  
誰も文句を言わないことと、健全であることは違う。  
表面上うまく回っていることと、誰も壊れていないことは違う。

だから、変えるべき場はある。

ただし、変革には危険もある。

すべてを変えようとすると、自分が壊れる。  
正しいことを言えば、すぐに場が変わるわけではない。  
むしろ正しいことを言った人間が、場から拒絶されることもある。

共同体には歴史がある。  
人には感情がある。  
今の普通で安心している人もいる。  
その普通を守ることで、自分の立場を保っている人もいる。

だから変革は、正しさだけでは進まない。

どこから変えるのか。  
誰に話すのか。  
どの言葉なら届くのか。  
どの記録が必要なのか。  
どの範囲なら現実的なのか。  
自分が引き受けるべき責任はどこまでなのか。

ここを見る必要がある。

変革とは、場と戦うことではない。

場が壊れないように、場の普通を少しずつ更新することである。

ただし、変革だけに偏る人は、常に戦う人になる。

どこに行っても、おかしいところを見つける。  
どこに行っても、変えようとする。  
どこに行っても、共同体と衝突する。

それは力でもあるが、疲弊にもなる。

変革できることと、変革すべきことは違う。  
変革したいことと、今変革できることも違う。

だから変革には、撤退の知恵も必要になる。

変える。  
変えない。  
今は変えない。  
少しだけ変える。  
自分の範囲だけ整える。  
誰かに引き継ぐ。  
記録だけ残す。  
離れる。

これらもまた、変革の一部である。

変革とは、共同体を敵にすることではない。

共同体の普通を、未来に耐えられる形へ書き換えようとすることである。


第七章 成熟とは、六つの態度を配分できることである

適合
順応
拒絶
排他
離脱
変革

この六つは、どれか一つを選べばよいものではない。

人は共同体の中で、この六つを配分しながら生きている。

この場には、どこまで適合するのか。  
何を順応として受け入れるのか。  
どこから拒絶するのか。  
誰とは距離を取るのか。  
いつ離脱を考えるのか。  
何なら変革できるのか。

その配分を、その都度変えていく。

場に飲まれる人は、適合と順応に偏りすぎる。  
場を壊してしまう人は、拒絶と変革に偏りすぎる。  
孤立してしまう人は、排他や離脱に向かいすぎる。  
どこにも根を張れない人は、離脱が早すぎることがある。  
いつも疲れている人は、変革しすぎているのかもしれない。  
いつも苦しい人は、本当は拒絶すべきものまで順応しているのかもしれない。

だから成熟とは、場に完全に染まることではない。

場と戦い続けることでもない。

自分の倫理を失わないまま、共同体との距離の配分を変えられることである。

空気を読むとは、自分を消すことではない。

場の倫理を読み、どこまで演じ、どこから距離を取り、何を受け入れ、何を拒み、何を変えようとするのかを選ぶことである。

それは共同体に従うことでもない。

共同体を否定することでもない。

場と自分のあいだに、ちょうどいい距離を作ることなのだと思う。


終章 場に飲まれず、場を壊さず、場と関わる


人は共同体なしには生きられない。

けれど、共同体に飲まれると自分を失う。

だから必要なのは、場を読む力である。

ここでは何が普通なのか。  
なぜそれが普通になっているのか。  
その普通は本当に正しいのか。  
自分はどこまで適合するのか。  
何を順応として受け入れるのか。  
どこから拒絶するのか。  
排他が起きているなら、誰が誰を承認していないのか。  
離脱すべきなのか。  
変革できるのか。

それを見極める力である。

場に合わせることは必要である。  
しかし、場に飲まれてはいけない。

違和感を持つことは必要である。  
しかし、すべてを拒絶してはいけない。

離れることは必要な場合がある。  
しかし、どこからも離れ続ければ、居場所は育たない。

変えることは尊い。  
しかし、すべてを一人で変えようとすれば、自分が壊れる。

だから、人は配分を学ばなければならない。

適合する。  
順応する。  
拒絶する。  
排他を見抜く。  
離脱する。  
変革する。

そのどれもが、人間が共同体の中で生きるための態度である。

場の倫理とは、共同体が人に要求する見えない普通である。

そして個人の倫理とは、その普通に対して、どこまで従い、どこから距離を取り、何を拒み、何を変えようとするのかを選び続ける態度である。

人は場に育てられる。

けれど、場に壊されることもある。

だからこそ、場を見る必要がある。

場に飲まれず。  
場を壊さず。  
場と関わる。

そのために、人は六つの態度を持つ。

成熟とは、一つに固定されることではない。

場に応じて、自分の倫理の配分を調整できることである。


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