後悔が欲望を上回るまで、人は同じ過ちを繰り返す。
人は、やめたほうがいいと知りながら、なぜ同じ過ちを繰り返すのだろう。
頭ではわかっている。
あれはやめたほうがいい。
あの関係はまた自分を消耗させる。
その遊び方は結局、虚しさしか残らない。
その買い方は後悔に繋がる。
それでも、人はまた同じ場所へ戻っていく。
このことを、意思が弱いの一言で片づけるのは、少し雑だと思う。
問題は意志の弱さというより、まだ欲望の期待値が生きていることにある。
人は理性で動いているように見えて、実際には期待値で動いている。
次こそはうまくいくかもしれない。
今回は前と違うかもしれない。
本当の満足はまだ取れていないだけかもしれない。
こうして欲望は延命する。
欲望とは、快楽そのものではなく、快楽の予感のことなのだと思う。
しかも厄介なことに、その予感は現実よりしぶとい。
一度の失敗では、人はなかなかやめない。
なぜなら一度の失敗は、例外として処理できてしまうからだ。
運が悪かっただけ。
タイミングが悪かっただけ。
相手が違っただけ。
今回だけは特別だっただけ。
人は後悔を抱えたまま、もう一度だけ試そうとする。
そしてまた負ける。
それでもなお、もう一度くらいはと思ってしまう。
この反復の中で起きているのは、単なる愚かさではない。
報酬の幻想が、まだ壊れていないのである。
人が本当に変わるのは、反省した時ではない。
もう割に合わないと身体で理解した時だ。
たとえば、
スマホを開く前に、また疲れるだけだと思う
買う前に、届いたあとの虚しさが先に見える
会いに行く前に、帰り道の自分の顔が浮かぶ
言い返す前に、言い終わったあとの惨めさが先に来る
ここに至るまでには、しばしば衝撃が要る。
きれいな教訓では足りない。
本を読んで納得するだけでも足りない。
実際に痛い目を見る。
恥をかく。
損をする。
虚無を味わう。
そこで初めて、欲望の内部にひびが入る。
これを、ある種の衝撃授業と呼びたくなる。
頭に知識を入れる授業ではなく、身体の報酬回路を書き換える授業である。
高い勉強代という言葉がある。
けれど本当は、勉強代とは知識を得るための金額ではない。
幻想を剥がすために払った損失なのだと思う。
つまり、人は金を払って学ぶのではない。
損をして、はじめて魅力が減る。
ここが重要だ。
人はよく、失敗から学ぶと言う。
だが実際には、失敗したという事実だけでは学ばないことが多い。
失敗してもなお、そこに快楽の予感が残っていれば、また同じことを繰り返す。
変化が起きるのは、失敗の回数が増えた時ではない。
その行為を思い出した時、快楽より先に虚無や後悔が立ち上がるようになった時だ。
つまり、人を止めるのは道徳ではない。
期待値の崩壊である。
これは少し残酷な話でもある。
誰かに、やめたほうがいいと忠告されても、人はあまり止まらない。
なぜならその人が受け取るのは情報だけで、報酬の幻想はまだ壊れていないからだ。
正しさは、外から教えられる。
だが、もういいと感じるところまでは、自分で行くしかない。
だから人は、同じ過ちを繰り返す。
まだその先に何かがあると思っている間は、繰り返してしまう。
そしてやっと、後悔が欲望を上回る。
あの快楽を思い出すより先に、その後の空虚を思い出すようになる。
あの刺激を想像するより先に、自分がどれだけ摩耗したかを思い出すようになる。
その時、人はようやく離れ始める。
人は理屈でやめるのではない。
快楽の期待値が崩れた時にやめる。
だから、同じ過ちを何度も繰り返した人を、単純に弱いと切り捨てることはできない。
そこにはまだ、報酬の幻想が生きていただけなのだ。
そして逆に言えば、人が変わるというのは、価値観が美しく更新されることではなく、欲望の計算式が書き換わることなのかもしれない。
それはあまり上品な学び方ではない。
むしろ、かなり痛い。
だが人間は、そういう痛みを経てしか抜けられない回路をいくつも持っている。
高い勉強代とは、知識の授業料ではない。
同じ幻想に、もう一度騙されなくなるための通行料なのだと思う。
人はそこで、賢くなるのではない
ただ、もう同じ甘さを甘いと感じられなくなる
それが、変わるということなのだと思う
そこには勝利感はない
ただ、もう戻らなくていいという静けさだけがある
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