問いを始める者──「そんなの、俺は知らない」と言った男の話

※この記事は約2300文字あります。

何年か前に、上司からの命令を遂行する為に法を犯そうとしている係長を引き留めた事がある。

…私はその時、係長に「法律に違反するから断らないといけない」と説明した。

すると、係長は堂々と「そんなの知らない」と答えた。

私は、制度という言葉がどれほど遠いものとして響いているかを、改めて思い知った。

たしかに、制度には序列がある(下図参照)

憲法は最上位で、就業規則や命令はその下にある。

だがこの図は、「正しさ」を示すだけで、「共鳴されているかどうか」は何も語らない。

制度の階層性


「そんなの、俺は知らない」

彼がそう答えたとき

私は一瞬、固まった。

そして、少し後になって思い出した。

彼には、子供が産まれたばかりだった。

それは、無知に対する苛立ちではなかった。

彼が初めて、“前提”そのものを問うたことへの、静かな衝撃だった。

■「知らない」と言った男は、何を問うたのか?


多くの人が、制度に疑問を抱かずに従っている。

法律も、教育も、税金も、「そういうものだから」と受け入れる。

国民だから”“そう決まっているから”という言葉が、世界の輪郭を規定する。

だがその男は、「俺は知らない」と言った。

それは情報としての無知ではない。

「自分が関与していないのに、なぜ従わされるのか?」という根源的な異議だった。

それはルールを否定する態度ではなく、
ルールの起源に参加できなかったことへの黙った抗議だ。

■問いは、沈黙を破る裂け目から始まる


彼の「知らない」は、
この社会で言語化されてこなかった多くの声を象徴していた。

彼は声を荒げたわけでもなく、暴力的だったわけでもない。

ただひとこと、堂々とした顔で言ったのだ。

「俺はそんなの知らない」と

その一言に、私は哲学的な裂け目を見る。

制度に沈黙してきた者が、初めて口を開く瞬間

与えられた前提に、微細なヒビが入る一瞬

それは、政治が本来あるべき姿──“始まり”としての政治──を思い出させる。

■知らないという自由


私たちは、知らないことを恥とする社会に生きている。

すぐに答えること、分かっているふりをすること、空気を読むこと、同調すること。

けれど彼は、堂々と「知らない」と言った。

それは一種の反抗だった。

そして、自由だった。

知らないことを引き受ける強さ。

知らないからこそ、問うことができるという可能性

その姿に、私は一人の“問いを始める者”を見た。

■制度は正しい。だがそれだけでは足りない


もちろん、制度は社会を守るためにある。

憲法は民主主義の根幹であり、「国民が決めた」というのも法的には正しい。

だが、正しさはときに他者の沈黙を押しつぶす。

「それはそう決まってるから」という言葉は、
「だから黙って従え」という命令に変わることがある。

問いのない正しさは、自由を削ぐ。

自由のない制度は、正しさを空洞化させる。

■彼の言葉は、始まりだった


あの時、私は制度を説明しようとしていた。

だが、彼は制度を“生きていない”ことを語っていた。

彼の「知らない」は、反逆ではなかった。

それはむしろ、「知らされていない」「参加できていない」者の、最も誠実な告白だったのかもしれない。

そしてそれは、制度を壊す問いではない。

制度の根から再び育て直そうとする問いなのだ。

■問いを始める者たちへ


「知らない」と言った彼の言葉が、今も私の中で響いている。

あれは、ただの会話ではなかった。

世界の輪郭が、少し揺らいだ瞬間だった。

あの一言の奥にある「沈黙の重み」に耳をすませること。

そこから、私たちはもう一度、世界に問いかけることができる。

それは、“答えを出すこと”ではなく

もう一度、問いを始めること。

※以下は余談です。

▼ 法的な優先順位(上から下へ)


【憲法】

 …すべての法の根拠だが、どれだけの人が読んだだろうか?

 (正しさの根拠だが、その正しさに人はどこまで実感を持っているか?)

【法律】

 …労働基準法などの正しさの体系。
 (自分がこれに参加した感覚はあるか?)

【命令・条例】

 …現場の運用に直結するが、形式的には法律より下位

【就業規則・社内ルール】

 …現実に最も人を動かす。だが、法的効力は最下層

【問い】

 …制度の外から湧き出す違和感

  「本当に従うべきなのか?」という、制度を根本から揺るがす契機。

法体系には、明確な“優先順位”がある。

上から順に、憲法 → 法律 → 命令・条例 → 規則

けれど、「俺はそんなの知らない」と言った彼の言葉は、

その階層のどこにも位置づけられていなかった。

むしろその言葉は、制度の階層を下から突き上げる“問い”だった。

それは、制度の破壊ではなく、再び始めようとする運動だったのだ。

📝【脚注:日本の法体系における優先順位】


日本の法体系では、「何が最も強いルールか」が明確に定められている。

憲法:すべての法の“頂点”

第98条により、これに反する法律・命令などは「無効」とされる。

条約:国際的な約束であり、日本国憲法はこれを誠実に守るよう定めている(第98条2項)。

国内法としての効力を持つことがあるが、基本的には憲法の下位に位置づけられる。

法律:国会で制定される正式なルール。条約より下位とされるが、命令や条例より上位。

命令(政令・省令など):行政機関による法規。法律の委任を受けて施行されるため、法律に従属。

条例:都道府県・市区町村が定めるルール。法律や命令に反してはならない。

📚 詳しくは:

野中俊彦ほか『憲法Ⅱ(第5版)』(有斐閣、2012)

芦賀克也『行政法概説Ⅰ(第5版)』(有斐閣、2013)

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