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耳垢と政治と哲学と──生命が教える“循環の真理”

耳垢と政治と哲学と

副題

汚れ、ケア、保守から考える、存在を支える見えない仕事

はじめに|汚れは、身体が働いた跡かもしれない


耳垢。

鼻水。

目ヤニ。

唾液。

皮脂。

剝がれ落ちた角質。

私たちは、それらを「汚れ」として扱う。

洗い流す。

拭き取る。

人に見られないようにする。

清潔であるためには、できるだけ身体の外へ取り除いた方がよいものだと考える。

たしかに、たまりすぎれば不快になる。

場合によっては、炎症や詰まりの原因になることもある。

だから、身体から出たものをすべて美化する必要はない。

しかし、耳垢や鼻水は、身体が維持に失敗したために生まれたゴミなのだろうか。

むしろ逆ではないか。

それらは、

身体が外部と接触しながら、自分の境界を守り続けた痕跡

なのではないか。

耳垢は、耳を守る働きのなかで生まれる。

鼻水は、異物を捕らえ、外へ運ぶ。

涙は、目の表面を潤し、洗い流す。

唾液は、口内を潤し、食物を溶かし、洗浄し、消化を助ける。

角質は、外部との境界を作り、役目を終えると剝がれ落ちる。

これらは、不要物が後から役に立てられたものではない。

潤し、守り、捕らえ、排出し、入れ替えるという保守活動の結果として生じたもの

である。

身体は、完成された物体ではない。

絶えず自分を掃除し、修復し、更新する存在である。

そして、その保守作業は、きれいなままでは終わらない。

生命は、自分を守るたびに、何らかの痕跡を残す。

私たちが汚れと呼んでいるものの一部は、身体が黙って働いた記録なのである。

第1章|耳垢は、ただのゴミではない


耳垢は、外耳道の皮膚から剝がれた角質、皮脂や分泌物、微細な埃などが混ざり合ってできている。

見た目だけを見れば、古くなったものの集まりである。

しかし、その存在には意味がある。

外耳道の皮膚が乾燥しすぎることを防ぐ。

小さな埃や異物を捕らえる。

外部から入ってきたものを、皮膚の移動とともに少しずつ外へ運ぶ。

細菌や真菌が増えにくい環境を保つ。

つまり耳垢は、

耳の中に残されたゴミであると同時に、耳の境界を守る保護物でもある。

ここには、単純な善悪では捉えられない構造がある。

少なすぎれば乾燥しやすい。

多すぎれば詰まりや不調の原因になる。

完全になくせばよいわけでもない。

無制限に残せばよいわけでもない。

身体が必要としているのは、耳垢の存在そのものではない。

耳を守りながら、余分なものを外へ運べる状態である。

これは水や塩分と似ている。

必要だから、多いほどよいのではない。

不要だから、完全になくせばよいのでもない。

生命に必要なのは、物質の有無ではなく、物質が適切な場所と量に置かれていることである。

耳垢は、その小さな例である。


第2章|身体は、境界を黙って手入れしている


耳垢、鼻水、涙、唾液、角質は、それぞれ別の器官から生まれ、働きも同じではない。

しかし、共通点がある。

それらの多くは、身体の内部と外部が接触する場所に存在している。

耳。

鼻。

目。

口。

皮膚。

どれも、外界への入口であり、同時に身体を守る境界である。

身体は外部と完全に切り離されてはいない。

空気を吸わなければならない。

食物や水を取り込まなければならない。

光や音や匂いを受け取らなければならない。

だが、外部へ開かれているということは、埃、乾燥、微生物、刺激物にもさらされるということである。

完全に閉じれば生きられない。

完全に開けば、内部を保てない。

そこで身体は、境界を閉鎖するのではなく、絶えず手入れしている。

潤す。

洗い流す。

捕まえる。

中和する。

抗菌する。

剝がす。

再生する。

外へ運ぶ。

存在を守っているのは、強固な壁ではない。

外部と接続しながら、接続面を修復し続ける働き

である。

皮膚は、一度作られた壁が永遠に残るわけではない。

古い細胞を外へ押し出しながら、新しい層を作り直している。

目は、一度きれいになれば終わりではない。

瞬きをするたびに涙を広げ、表面を整える。

口も、食事のときだけ唾液を出しているのではない。

何もしていないように見える時間にも、乾燥や細菌の増殖を抑えようとしている。

身体が静止しているように見えるのは、何も起きていないからではない。

無数の保守作業が、異常が見えない程度に成功しているからである。


第3章|汚れとは、維持に失敗した証拠だけではない


私たちは、きれいな状態を正常だと考えやすい。

汚れていることは、手入れが足りないこと。

散らかっていることは、管理が悪いこと。

壊れていることは、能力が低いこと。

だが、維持には必ず残余が生まれる。

料理をすれば、生ゴミが出る。

機械を動かせば、摩耗粉や廃熱が出る。

都市を動かせば、廃棄物や排水が出る。

身体を維持すれば、古い細胞や分泌物が外へ出る。

残余があることは、必ずしも失敗ではない。

何かが働き、入れ替わり、更新されたことの証拠でもある。

むしろ、何も排出されない身体は危険である。

涙が出ない。

唾液が出ない。

鼻の粘液が働かない。

古い角質が適切に入れ替わらない。

尿や便が出ない。

身体は、不要なものを一切生まないことで清潔なのではない。

不要になったものを、外へ出せるから維持される。

ここで、清潔の意味も変わる。

清潔とは、汚れが一度も発生しない状態ではない。

汚れが生じても、洗浄と排出と更新が続いている状態

である。

生命は無垢だから保たれるのではない。

汚れ、傷つき、古くなりながら、それを処理し続けるから保たれる。


第4章|社会にも、見えない保守作業がある


身体の表面を守る働きは、ほとんど意識されない。

涙が目を守っていても、私たちは毎回それに感謝しない。

唾液が口内を洗っていても、成果として数えない。

耳垢が異物を捕らえても、功績として表彰しない。

問題が起きなければ、働いていること自体が見えないからである。

社会にも、同じような仕事がある。

清掃。

育児。

介護。

看護。

設備の点検。

道路や水道管の補修。

家庭での食事づくり。

地域の見守り。

学校で子どもの話を聞くこと。

職場で新人の失敗を支えること。

誰かの感情が壊れる前に、言葉を受け止めること。

これらは、新しい製品を生み出す仕事とは限らない。

売上を直接増やすとも限らない。

目立つ成果が残らないことも多い。

だが、それらが止まれば、社会は短期間で傷み始める。

社会は、生産する仕事だけでは維持できない。
生産が可能な状態を守る仕事が必要である。

食事を作る人がいるから、次の日も働ける。

子どもを育てる人がいるから、次の世代が社会へ参加できる。

介護する人がいるから、老いや病を抱えた人も社会の内部にとどまれる。

清掃する人がいるから、建物は利用可能な状態を保てる。

修理する人がいるから、設備は壊れたまま放置されない。

それらは生産の外側にある余分な仕事ではない。

社会が社会であり続けるための、保守機構である。


第5章|政治とは、社会の恒常性である


政治は、権力を争う場所として見られやすい。

選挙。

政党。

支持率。

予算。

外交。

軍事。

もちろん、それも政治である。

しかし、政治を社会の維持という側から見れば、別の姿が現れる。

政治とは、

社会のどこで水や食料が不足しているのか。

どこで道路や設備が傷んでいるのか。

誰が医療や教育へ接続できていないのか。

どこで負担が集中し、どこに余力が残っているのか。

それらを観測し、配分と制度を調整する働きでもある。

身体では、体温が上がれば発汗が起きる。

水分が減れば、尿量が抑えられる。

傷ができれば、血液凝固や免疫反応が働く。

一部に異常が起きたとき、全体が調整を始める。

政治も、本来はそれに近い。

社会の一部に生じた損傷や不足を、全体の問題として受け取り、崩壊する前に調整する仕組み

である。

税と社会保障は、余っているものを気まぐれに分ける行為ではない。

誰もが常に同じ場所にいるとは限らない社会で、負担と危険を分かち合う装置である。

子どもだった人は働く世代になる。

働いていた人は老いる。

健康だった人が病気になる。

支える側だった人が、支えられる側になる。

社会保障とは、固定された強者が固定された弱者へ与える慈善ではない。

時間の中で役割を入れ替える人間同士が、互いの不確実性を引き受ける循環

である。

この意味で、政治は単なる再分配ではない。

社会の恒常性であり、免疫であり、保守である。


第6章|競争は、保守を無駄に見せる


なぜ、維持に必要な仕事が軽視されるのだろうか。

理由の一つは、競争が成果を短期間で測ろうとするからである。

何を生み出したのか。

どれだけ売ったのか。

どれだけ速く処理したのか。

どれだけ費用を削減したのか。

そうした指標は、目に見える。

一方、保守の成果は見えにくい。

事故が起きなかった。

病気が悪化しなかった。

子どもが孤立しなかった。

高齢者が生活を続けられた。

水道管が破裂しなかった。

誰かが仕事を辞めずに済んだ。

壊れなかったものは、成果として数えにくい。

そのため保守は、

何も生み出していない。

利益を増やしていない。

費用だけがかかる。

と見なされやすい。

だが、身体が唾液や涙をコストとして削減したらどうなるだろう。

短期的には、水分やエネルギーを節約できるかもしれない。

しかし、口内や眼球表面は傷み、感染や機能低下が起きる。

保守を削ることは、一時的には効率化に見える。

だが実際には、

将来の損耗を、現在の帳簿から見えなくしているだけ

の場合がある。

設備更新を先送りする。

人員を最小限にする。

教育時間を削る。

介護者へ負担を集中させる。

休憩を減らす。

相談の時間をなくす。

その場では利益が増える。

しかし、社会の境界と接続面は少しずつ乾き、摩耗し、裂けていく。

循環そのものが贅沢になったのではない。

循環を維持する費用を、競争の指標が価値として認識できなくなった

のである。


第7章|人間を「再利用可能な資源」にしてはいけない


ここで、注意しなければならないことがある。

高齢者には経験がある。

障害のある人から学べることがある。

病気や痛みを知る人は、他者へ深い理解を示すことがある。

たしかに、社会が「負担」と見なしている人の中に、見落とされた知識や役割が存在することはある。

しかし、

高齢者には知恵があるから価値がある。

障害者は多様性を教えるから価値がある。

介護される人は、介護者を成長させるから価値がある。

とだけ言えば、別の問題が生まれる。

知恵を伝えられない人は、価値がないのか。

誰かを成長させられない人は、支えられなくてよいのか。

社会的な役割を果たせない人は、存在を正当化できないのか。

人間を救おうとして、再び有用性の基準へ戻してはならない。

耳垢には、耳を守る機能がある。

だが、人間は耳垢ではない。

人間の尊厳は、社会にとって役に立つことだけでは説明できない。

再配置すれば役立つから守るのではない。
役割を持てない時期にも、社会の成員として存在できるようにする。

それが政治の役割である。

社会は、人を部品として効率よく配置するためだけに存在するのではない。

人が部品にならずに生きられる余白を作るためにも存在する。


第8章|老子――水のように支える政治


老子は、水を高い場所から命令する存在としてではなく、低い場所へ流れ、争わず、万物を潤すものとして描いた。

水は、自分の価値を主張しない。

しかし、水がなければ生命は続かない。

目立たず、低い場所へ行き、形を変えながら全体を支える。

その姿は、涙や唾液にも似ている。

政治の理想も、本来は目立つ支配だけではない。

人々が生きられる条件を、過剰に誇示せず整えること。

一部へ圧力を集中させず、必要な場所へ資源を流すこと。

人間や地域が本来持っている働きを、介入しすぎて壊さないこと。

無為とは、何もしないことではない。

全体の流れを理解し、余計な操作によって自律的な働きを壊さないこと

である。

ただし、放置を無為と呼んではならない。

水が届かない場所に、自然に任せればよいと言うことはできない。

支えないことと、支配しすぎないことは違う。

水のような政治とは、何もしない政治ではない。

自分が中心であることを主張せず、必要な場所を潤す政治

である。


第9章|ルソー――差は、比較によって序列になる


人間には違いがある。

体力。

年齢。

技能。

財産。

性格。

生まれた場所。

それらの差があるだけで、直ちに不平等が完成するわけではない。

人間は、他者と自分を比較する。

あの人は自分より多く持っている。

あの人は評価されている。

自分は遅れている。

自分は選ばれていない。

差に社会的な意味が与えられたとき、違いは序列へ変わる。

ルソーが描いた問題の一つは、この比較する自己である。

人は生きるために必要なものだけでなく、

他者からどう見られるか。

誰より上にいるか。

誰に認められるか。

を欲するようになる。

すると、社会は生命を維持するための共同体であるだけでなく、価値を競う場所になる。

保守やケアが軽視されるのも、その働きが目立たず、比較の勝利になりにくいからである。

耳垢は、他の器官より優れていることを証明しようとしない。

涙も、成果を誇示しない。

ただ必要な働きをしている。

人間社会が身体から学べるのは、

すべての働きを、一つの序列へ並べなくても全体は成立する

ということではないか。

違う役割がある。

違う速度がある。

違う時期がある。

それらを一つの尺度で測るから、必要な働きまで敗者として扱われる。


第10章|アーレントと、公共世界を支える見えない労働


アーレントは、人間の営みを、生命維持を繰り返す労働、持続する人工物を作る仕事、他者の前で言葉と行為を通して公共世界を作る活動へ分けた。

この区別は、人間が生存するだけでなく、他者とともに世界を作る存在であることを示している。

しかし、ここにはもう一つの問いが残る。

公共の場で語り、行動するためには、誰かが生活を維持していなければならない。

食事を作る。

衣服を洗う。

子どもを世話する。

病人や高齢者を支える。

建物を掃除する。

設備を整える。

感情が壊れた人の話を聞く。

公共世界に現れる活動は、こうした反復的な保守労働の上に立っている。

だが、保守労働は繰り返しであるがゆえに、完成しない。

今日掃除しても、明日また汚れる。

今日食事を作っても、明日また必要になる。

今日介護しても、明日も身体は老いる。

完成品が残らないため、価値が低いように見える。

しかし身体を見れば分かる。

涙は、目を一度洗えば役目を終えるわけではない。

唾液も、口内を一度潤せば永遠に保たれるわけではない。

維持に関わる仕事は、繰り返されるから未熟なのではない。
生きているものを扱うから、終わらないのである。

政治が評価しなければならないのは、目立つ活動だけではない。

その活動が可能な状態を作り続ける、見えない労働でもある。


第11章|教育は、意味を再配置する力を育てられるか


教育は、正解を速く覚えるためだけのものではない。

すでに価値が決まったものを、決まった順番で学ぶだけでもない。

教育には、

価値がないように見えるものを、別の関係の中で見直す力

を育てる役割がある。

耳垢を汚れとしてしか見ない人と、耳を守る働きの痕跡として見る人では、同じものを見ても世界が違う。

老いを衰えとしてしか見ない人と、時間の蓄積としても見る人では、社会の設計が変わる。

育児を仕事から離脱する期間としてしか見ない社会と、次の世代を社会へ迎える保守期間として見る社会では、政策が変わる。

問い直すべきことは多い。

なぜ、人は老いるのか。

なぜ、役に立たない時間が必要なのか。

なぜ、誰かの話を聞くことに価値があるのか。

なぜ、完成しない仕事を続けなければならないのか。

なぜ、他者を支えるのか。

教育とは、すべてを有用に変換する能力ではない。

有用性だけでは扱えないものを、切り捨てずに考え続ける能力

を育てることでもある。


第12章|政治とは、再意味化より再接続の技術である


政治を「意味の再配置」と捉えることには価値がある。

高齢者を負担としてだけ見るのではなく、社会の成員として捉え直す。

育児や介護を私的な都合ではなく、社会の維持として位置づけ直す。

過疎地を非効率な地域としてだけ見るのではなく、国土、食料、文化、共同体の維持に関わる場所として考える。

しかし、意味を変えるだけでは足りない。

介護は大切だと言いながら、担い手の賃金が低ければ続かない。

子育ては社会全体の仕事だと言いながら、親が孤立していれば言葉だけになる。

高齢者の経験は財産だと言いながら、移動や交流の手段がなければ社会へ戻れない。

必要なのは、称賛ではなく接続である。

政治とは、切れた流れを再びつなぐ技術である。

人と医療をつなぐ。

子どもと教育をつなぐ。

高齢者と地域をつなぐ。

孤独な人と他者をつなぐ。

農村と都市をつなぐ。

過去の知識と次の世代をつなぐ。

支援する側とされる側を、固定された身分ではなく、時間の中で入れ替わる役割としてつなぐ。

意味を与え直すだけでは、人は生きられない。

制度、資源、場所、時間、人間関係へ実際につながる必要がある。

政治とは、

社会の内部で滞ったものを、もう一度流れへ戻すための接続設計

なのである。


終章|耳垢のように、誰かを守れたら


耳垢は、誰にも褒められない。

耳を守っても、本人に気づかれない。

むしろ、汚いものとして取り除かれる。

涙も、唾液も、鼻水も、働いているあいだは意識されない。

異常が起きたときだけ、その存在に気づく。

社会の保守も同じである。

誰かが毎日掃除しているから、汚れが目立たない。

誰かが介護しているから、生活が崩れない。

誰かが話を聞いているから、孤立が破局へ進まない。

誰かが設備を直しているから、水が止まらない。

誰かが子どもを育てているから、社会は次の世代へ続く。

維持に成功した仕事は、何も起こらなかったように見える。

だから、価値を見落とされる。

けれど、存在とは、何もせずに残り続けることではない。

壊れながら修復されること。

乾きながら潤されること。

汚れながら洗われること。

古くなりながら入れ替えられること。

切れながら、つなぎ直されることである。

身体は、すでにそのことを知っている。

身体は、自分の境界を黙って守っている。

外部を拒絶しきるのでもなく、すべてを受け入れるのでもない。

潤し、捕らえ、洗い、排出しながら、開かれたまま自分を保っている。

社会も、そのように存在できるだろうか。

役に立つ人だけを残すのではなく。

目立つ成果だけを評価するのではなく。

壊れた人を外へ捨てるのでもなく。

弱さや老いや停滞を、ただ美化するのでもなく。

必要な場所へ手を伸ばし、失われた接続を作り直し、誰かが社会の内部にとどまれるようにする。

それが政治であり、ケアであり、保守なのだと思う。

誰にも気づかれず。

誰の称賛も得ず。

それでも鼓膜を守っている耳垢のように。

私たちもまた、誰かが世界との接触で傷つかないよう、静かに境界を潤すことができるかもしれない。

身体が語ることを、社会は忘れてはいけない。

存在を支えているのは、目立つ力だけではない。
壊れないように、毎日ひそかに手入れを続ける力である。

これは、耳垢から始まる哲学である。

そして、政治がもう一度思い出すべき、維持の哲学でもある。


最終定義


保守とは、

古いものを変えずに残すことではない。

外部と接触することで生じる乾燥、汚れ、摩耗、損傷を受け取り、

潤し、

洗い、

修復し、

入れ替え、

排出し、

必要な接続を作り直すことである。

身体は、分泌物と剝離物を生みながら、自らの境界を維持する。

社会は、ケア、清掃、教育、修理、介護、対話によって、自らの関係を維持する。

それらは、余ったものを再利用するだけの働きではない。

存在が存在であり続けるために、崩壊よりも速く続けられる、見えない仕事なのである。

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