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インドは次の覇権国家になれるのか?

──カースト制度と衛生問題が試す「文明」の再定義

はじめに|GDP世界一になれば、世界の中心になれるのか


インドは巨大である。

人口だけではない。

経済も、ITも、宇宙開発も、製薬も、デジタル決済も巨大だ。

2023年には中国を抜いて世界最大の人口を抱える国となった。

2026年の人口は約14億7700万人と推計され、IMFは2026年の実質GDP成長率を6.4%と予測している。

15〜24歳だけでも約2億5500万人を抱える。

かつて、

「2050年にはインドがGDP世界一になる」

という予測が盛んに語られた。

しかし、こうした長期予測は人口、為替、生産性、制度改革、政治情勢によって大きく変わる。

だから本稿では、

インドは本当にGDP世界一になるのか

という予言をしたいわけではない。

もっと重要な問いがある。

仮に世界最大級の経済大国になったとして、インドは「覇権国家」になれるのか。

GDPと覇権は、同じものではないからだ。

覇権とは、単に巨大な経済を持つことではない。

軍事力があることでもない。

通貨を大量に流通させることでもない。

他国の人々が、

「この国の制度なら使いたい」

「この国の技術なら接続したい」

「この国の秩序なら、ある程度任せてもいい」

と思えること。

つまり覇権とは、

世界から信頼を預けられる能力

でもある。

そして、その意味でインドほど興味深い国はない。

なぜならインドには、

最先端と前近代、
コードとカースト、
宇宙開発と下水、
デジタル決済と路上生活、

そうした異なる文明段階に見えるものが、同じ時間の中に存在しているからである。

第1章|文明は一本の階段ではない


私たちは、どこかで文明をゲームのレベルのように考えている。

経済が発展すれば、

道路も整う。
教育も進む。
衛生状態も改善する。
差別も減る。
民主主義も成熟する。
科学技術も進歩する。

全部が一緒に上がっていくように思っている。

しかし、インドを見ると、そのモデルがおかしいことに気づく。

文明の発達は、

一本の数値ではない。

たとえば仮に、

技術力 90
デジタル化 95
宇宙開発 90
公共衛生 65
教育格差 55
社会的平等 50

という国があっても、何も不思議ではない。

実際、インドはAadhaarという巨大なデジタルID基盤やUPIという即時決済網などを構築し、世界銀行もインドを大規模なデジタル公共インフラの代表例として扱っている。

つまり、

デジタルでは先進国より先に行きながら、物理的インフラでは課題を残す

ということが普通に起こる。

ここにインドの面白さがある。

「進んでいる国」と「遅れている国」という二分法そのものが成立しない。

文明とは一本の直線ではなく、

複数の軸が別々の速度で伸びていく構造体

なのだ。

だからインドは、

「発展しているのに未発達」

なのではない。

ある領域では非常に発達し、別の領域では発展途上にある。

その両方が同じ国の中に存在している。

これはインドだけの特殊性というより、文明というものの本来の姿が、インドでは極端に見えやすいのだと思う。


第2章|カースト制度は「廃止された」のか


インドについて語るとき、避けて通れないものがカーストである。

ただし、

インドではカースト制度が法律で廃止された

という説明は、少し雑である。

インド憲法15条はカーストなどを理由とする差別を禁止し、17条は不可触制そのものを廃止している。

だが、これは「カーストという社会的カテゴリーそのものを法律によって消した」という意味ではない。

むしろ歴史的不利益を是正するため、指定カーストなどを対象とした積極的な保護政策も存在する。

ここには非常に重要な問題がある。

法律は行為を禁止できても、人間の頭の中の分類までは消せない。

差別は禁止できる。

しかし、

誰と結婚するのか。
誰を家族として迎えるのか。
誰を信用するのか。
どんな職業を「その家の仕事」だと思うのか。

そうした社会的記憶まで、憲法の公布日に消えるわけではない。

制度には二種類ある。

紙に書かれた制度と、

身体に染み込んだ制度である。

前者は法律を変えれば変えられる。

後者は世代をまたいで残る。

カースト問題の難しさは、まさにここにある。


第3章|コードはカーストを破壊できるのか


そこで登場したのがITだった。

プログラムには、少なくとも原理上、

バラモンも、
ダリットも、
ヒンドゥーも、
イスラムも、

書かれていない。

コードにとって重要なのは、

誰が書いたかではなく、動くかどうか

である。

これは非常に強い。

従来の社会では、人間そのものが評価される前に、

姓、
家、
土地、
宗教、
共同体、

といった属性が先に見えてしまう。

しかしコンピュータは違う。

正しいコードを書けば動く。

間違っていれば動かない。

コンピュータそのものには身分制度がない。

だからITは、インド社会に新しい社会移動の経路を作った。

だが、ここで美談にしてはいけない。

コードが平等でも、コードを書く場所までの道は平等ではない。

パソコンを買えるか。

安定した通信環境があるか。

英語を学べるか。

良い学校へ行けるか。

勉強する時間を確保できるか。

家族が教育を支援してくれるか。

ここには当然、所得や地域や社会階層の差が入り込む。

つまりITは、

カーストを消す技術ではない。

もっと正確には、

出自の影響を弱められる新しい経路を一つ増やした技術

なのである。

これは小さな違いではない。

制度そのものを破壊しなくても、

制度を迂回する道路を大量に作れば、制度の力は相対的に弱くなる。

革命ではない。

迂回路による制度侵食

である。


第4章|「インドは汚い」という話は、かなり古くなりつつある


そしてもう一つ、インドについて強烈なイメージを作ってきたのが衛生問題である。

路上のゴミ。

牛。

泥。

屋台。

濁った川。

屋外排泄。

トイレ不足。

こうした映像はいまでも大量に流れてくる。

ただし、ここには重要な修正が必要だ。

インドの衛生状態は、ここ10年ほどで大きく変わっている。

かつてインドでは屋外排泄が巨大な社会問題だった。

UNICEFによれば、2015年には約5億6800万人が屋外排泄をしていたと推計されている。

その後、トイレ建設や衛生政策が大規模に進み、約4億5000万人規模の減少が起きた。

WHO・UNICEFのデータを使用する世界銀行の指標では、2024年に屋外排泄をしているインドの人口比率は約7%まで低下している。

7%はまだ小さくない。

14億人の7%なら、人口としては依然巨大である。

しかし、

「インドでは何億人も当たり前のように野外排泄している国だから進歩していない」

という昔のイメージを、そのまま2026年に持ってくるのも間違っている。

むしろ興味深いのは、

インドは実際に変わっている

ということだ。

しかも衛生政策は、単に便器を置けば終わる話でもない。

便器を使い続けること。

汚物を安全に回収すること。

下水を処理すること。

水を安定供給すること。

ゴミを回収すること。

設備を維持すること。

UNICEF自身も現在、インドの課題を単なる「トイレの有無」から、汚物・排水・廃棄物まで安全に管理するODF+へ移している。

つまり文明とは、

設備を作ることではなく、設備を維持する制度を作ること

なのである。


第5章|それでも、なぜインド旅行で「世界観が変わる」のか


よく、

インドへ行くと人生観が変わる

と言われる。

もちろん、すべての旅行者がそうなるわけではない。

インドも巨大な国なので、どこへ行くかによって体験は全く違う。

それでも、この言葉が繰り返される理由は分かる。

おそらく、宗教だけではない。

貧困だけでもない。

異文化だけでもない。

身体が、普段とは違う社会インフラに直接さらされるからだ。

水を見て、

「これは飲めるのか」

と思う。

氷を見て、

「この氷は何の水から作ったのか」

と考える。

料理を見て、

「大丈夫だろうか」

と思う。

トイレを探す。

道路を歩く。

交通を避ける。

つまり普段、日本では考えもしなかったことを、一つ一つ自分で判断し始める。

そして日本へ帰ってくる。

蛇口をひねる。

水を飲む。

何も起きない。

コンビニでおにぎりを買う。

製造場所も調理人も知らない。

それでも食べる。

スーパーで卵を買う。

生で食べる。

駅のトイレへ行く。

普通に使える。

ゴミを出す。

数時間後には消えている。

ここで初めて気づく。

なんて日本は清潔なんだ。

しかし、もう少し正確に言えば違う。

日本が単に「清潔」なのではない。

清潔であることについて、自分で考えなくていい社会になっている。

ここが重要なのだ。


第6章|文明とは「意識しなくていいもの」を増やす装置なのではないか


水道水を飲むとき、私たちは浄水場について考えない。

便器のレバーを引くとき、下水処理場について考えない。

コンビニ弁当を買うとき、食品衛生法やコールドチェーンについて考えない。

電気をつけるとき、発電所について考えない。

電車に乗るとき、信号システムについて考えない。

それらを毎回考えていたら、人間は日常生活だけで疲れ果ててしまう。

だから社会は、無数の判断を個人から引き取る。

そして、

「大丈夫だろう」

という一言に変換する。

ここに文明の重要な機能がある。

文明とは、ビルの高さでもない。

GDPでもない。

高速鉄道でもない。

もしかすると、

人間が自分で警戒しなければならない対象を減らしていくこと

なのかもしれない。

水を疑わなくていい。

食べ物を疑わなくていい。

橋が落ちるか疑わなくていい。

薬が偽物か疑わなくていい。

電車が脱線するか毎朝考えなくていい。

この状態を支えているものは、

無意識の信頼

である。

そして、社会が高度になるほど、その信頼は透明になる。

透明だから、普段は価値に気づかない。

失われた瞬間に初めて見える。


第7章|インド旅行で見えるのは、インドではなく日本なのかもしれない


ここで奇妙な逆転が起きる。

インド旅行によって、

インドを知ったと思っていた。

しかし実際には、

日本を初めて知ったのかもしれない。

比較対象がなければ、「普通」は見えないからである。

日本にずっと住んでいれば、

蛇口から水が出ることも、

食中毒をほとんど意識せず外食できることも、

公衆トイレが使えることも、

道路に大量のゴミが積み上がらないことも、

当たり前になってしまう。

当たり前とは、

価値がなくなった状態ではない。

価値を認識する必要がなくなった状態である。

外国へ行く。

その前提が崩れる。

そして帰国する。

同じ蛇口から同じ水が出ている。

しかし、それまでとは違って見える。

世界が変わったわけではない。

比較によって、透明だった構造が見えるようになった。

これが「世界観が変わる」という現象の一つの正体なのではないかと思う。


第8章|だから「汚さを赦す文明」では足りない


以前なら、私はこう考えたかもしれない。

インドには、

「汚れていても人は生きていける」

という文明観があるのではないか。

清潔で、合理的で、管理された現代社会とは違う、

不完全さを赦す文明なのではないか、と。

今は少し違う。

確かに、

人間は完璧でなくても生きられる。

社会も矛盾を抱えたまま続いていく。

そこにはインドから学べるものがある。

しかし、

汚染された水による感染症も、

不十分な下水も、

安全でないトイレも、

それ自体を「別の成熟」と呼んで美化する必要はない。

WHOとUNICEFが衛生設備を公衆衛生の重要課題として扱っているのは、それが単なる美観の問題ではなく、疾病や生命、安全、尊厳に関わるからだ。

不完全な人間を赦すことと、

改善できる社会問題を放置すること

は別だからである。

インドの価値は、

汚れていることではない。

むしろ、

巨大な不完全さを抱えながら、それを実際に変えていること

にあるのではないか。


第9章|では、インドは覇権国家になれるのか


ここで最初の問いへ戻ろう。

インドは次の覇権国家になれるのか。

私は、

可能性はある。しかしGDPだけでは決まらない

と考える。

人口はある。

市場もある。

技術力もある。

若い人材もいる。

デジタル公共インフラについては、むしろ世界へ輸出できるモデルを持ち始めている。

世界銀行も、インドのデジタルIDや決済基盤を大規模な公共デジタル基盤の重要事例として取り上げている。

しかし覇権には、それ以上のものが必要になる。

国内の巨大な人口に、

安全な水を提供できるか。

教育機会を広げられるか。

出生による差を弱められるか。

都市化に公共インフラを追いつかせられるか。

そして何より、

十数億人という巨大な社会の中で「知らない相手を信用して暮らせる仕組み」を作れるか。

ここが試される。

人口が巨大であることは力になる。

しかし同時に、

巨大な人口へ信頼を供給しなければならないという、とてつもなく難しい課題にもなる。


第10章|次の覇権は、「支配」ではなく「接続」かもしれない


そして、もう一つ考える必要がある。

そもそも21世紀後半に、

アメリカ型の単独覇権国家が必要なのだろうか。

一国が、

軍事、
通貨、
技術、
文化、
金融、
情報、

すべてを握る時代そのものが終わる可能性もある。

その場合、インドが目指すものは、

「次のアメリカ」

ではないかもしれない。

もっと違う形がある。

たとえば、

安価なデジタル決済。

巨大人口向けの行政システム。

低コスト医療。

大量の技術者。

デジタルID。

多言語社会を動かす制度。

そうしたものを世界へ提供し、

世界中の人々がインドの仕組みに接続する。

それも一種の覇権である。

支配するのではなく、

接続点になる。

もしかすると、次の覇権国家とは、

世界を命令によって動かす国家ではなく、

世界が利用せざるを得ない公共基盤を作った国家なのかもしれない。


結語|文明とは、何を忘れて生きられるか


インドを見ると、文明について考えさせられる。

最先端技術があれば文明なのか。

清潔なら文明なのか。

差別がなければ文明なのか。

豊かなら文明なのか。

おそらく、どれも一部にすぎない。

文明とは、

人間が生存のために毎日処理しなければならない問題を、社会が代わりに引き受けていく仕組み

なのではないか。

水を疑わなくていい。

食べ物を疑わなくていい。

他人の身分を確認しなくていい。

現金を持ち歩かなくていい。

自分がどこの家に生まれたかによって、人生を諦めなくていい。

そうして一つずつ、

人間が気にしなくていいことを増やしていく。

その意味では、

文明の完成度は、目に見えるものではなく、意識から消えたものによって測れるのかもしれない。

そしてインドは現在、

非常に奇妙な地点にいる。

ある問題については、まだ人間が毎日自分で警戒しなければならない。

その一方で、

デジタル決済のような領域では、他国より先に「考えなくていい世界」を作り始めている。

だからインドは興味深い。

遅れているからではない。

進んでいるからでもない。

文明の未来と過去が、同時に露出しているからだ。

インドが次の覇権国家になるかどうかは分からない。

しかし、もし本当に世界の中心へ向かうのなら、

問われるのはGDPの順位ではない。

カーストをどこまで過去にできるか。

衛生をどこまで背景にできるか。

デジタル技術をどこまで人々の生活へ行き渡らせられるか。

そして、

「この社会なら、いちいち疑わなくても生きられる」

という信頼を、十数億人に提供できるか。

覇権とは、他国を従わせる力だけではない。

人々が安心して、自分の判断の一部を預けられる力でもある。

インドが世界に提示する次の文明モデルがあるとすれば、

「汚さを赦すこと」ではない。

巨大な矛盾を消さずに抱えながら、それでも一つずつ、人間が心配しなくてよいものを増やしていくこと。

そこにこそ、

インドが次の時代へ提示できる、本当の物語があるのかもしれない。


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