🌲『スギと土砂崩れ──高度経済成長期の“緑の代償”』



🧭 序章|「緑」が災害を招くという逆説

山に木があるのは当然だと思っていないだろうか?

むしろ、緑に覆われた山々を「豊かな自然」と見なす人も多い。

だがその緑が、実は災害の引き金だったとしたら?

近年、日本各地で頻発する土砂災害。

その一因に「スギの人工林」が関係している可能性がある。

高度経済成長期、日本は“緑の国家事業”として大規模な植林政策を進めた。

戦後の住宅需要と木材需要に応えるため、各地の山にスギが植えられた。

しかし、その選択は──自然を「商品」にした瞬間でもあった。

🌲 第1章|「成長する木」としてのスギの宿命

スギは早く育つ。

そして、まっすぐ伸びる。

製材しやすく、建材にも向く。

つまり「経済的に効率の良い木」だった。

国策として植えられたスギは、1960年代〜70年代にかけて、日本の山々を覆っていった。

だがその一方で、スギには致命的な欠点があった。

それは、根が浅いという性質だ。

スギの根は広く張らず、深くも伸びない。

そのため、地面をがっちりとホールドする力が弱い。

これが何を意味するか?

豪雨や地震のたびに、斜面が崩れるリスクが高くなるということだ。

💧 第2章|保水力の喪失と“緑の化け物”

もうひとつ重要なのは「山の保水力」の問題だ。

自然林は、多種多様な樹種が入り混じり、根が土壌を複雑に絡め、水を蓄えながら緩やかに流す装置として機能する。

ところが、単一種の人工林はこの仕組みを壊してしまう。

とくにスギ林は間伐が行き届かないと密集しすぎて光が地面に届かない。

その結果、下草も枯れ、表層の土がむき出しになりやすくなる。

木はある。

緑もある。

けれど「山の機能」がない。

それが、日本各地に広がる“緑の化け物”と化したスギ林の正体である。

🏚 第3章|人災としての土砂災害

こうして「木があるのに崩れる山」が生まれた。

台風が来るたびに、川が氾濫し、山が崩れ、人が死ぬ。

私たちはそれを「天災」と呼ぶ。

だが本当に、すべてが自然の仕業なのか?

違う。

そこには、人為的な森林管理の歴史がある。

木を売るために山を変え、経済を優先して多様性を失い、
“森林というシステム”を経済モデルに合わせて単純化してしまった。

そのツケが、いま「人災としての土砂災害」となって返ってきているのだ。

🛢 第4章|再び繰り返される──ソーラーパネルという現代のスギ

そして、私たちは再び似たような構図に直面している。

今度は「脱炭素」「再生可能エネルギー」という美名のもとに。

山を切り開き、森林を伐採し、大規模にソーラーパネルを設置する──。

それはまるで、高度経済成長期にスギを植えた論理と重なる。

「自然を守るために、自然を壊す」という矛盾。

森林の保水力を軽視し、短期的な収益やエネルギー効率を追い求める構造は、
半世紀前と何も変わっていない。

🧬 終章|“緑”という幻想を超えて

自然とは、本来、単一種で構成されていない。

多様性が、システムの強さを支えている。

それは、森も社会も同じである。

私たちは「緑があるから大丈夫」という幻想に騙されてきた。

これからの時代に問うべきは、
「木があるかどうか」ではなく
「その緑は、山を守っているか?」である。

スギは悪者ではない。

だが、スギを“使い方”を誤れば、自然は牙をむく。

そして今、ソーラーパネルにも同じ問いが突きつけられている。

文明と自然の共存とは、「機能する森」をどう設計するかにかかっている。


追記


スギ人工林の問題は、土砂崩れや山火事だけではない

それは、山の栄養循環の問題でもある

森は、本来なら落ち葉を積もらせ、虫や菌や微生物に分解させ、腐葉土を作る

その腐葉土は水を抱え、根を支え、少しずつ栄養を川へ渡す

だが、単一化され、手入れされず、光の届かない人工林では、林床の多様性が失われる

下草が消え、虫が減り、土が痩せる

そして雨が降れば、栄養は山に蓄えられる前に表土ごと流れていく

緑はある

しかし、巡っていない

山が栄養を抱えられなくなったとき、その影響は山だけに留まらない

川が痩せる

海が痩せる

魚が痩せる

食卓が痩せる

山とは、山だけで完結した場所ではない

山は、川と海と人間の身体へつながる栄養の出発点でもある

だから問うべきなのは、木があるかどうかではない

その森は、栄養を巡らせているか

その緑は、命を次へ渡しているか

ここまで問わなければ、山を見たことにはならない

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