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憧れという名前の感情|独吟「景清」


本日はこちら、武田宗典むねのり之会へ。

心意気を感じる提灯
番組


どうも、私香です。

この会では毎回、立派な解説冊子が配られます。10ページもある充実ぶりで、演目の解説はもちろん、かわいい猫の漫画で『砧』がわかりやすく紹介されていたり、物語のあらすじだけでなく舞台の展開まで載っていたり。


「言葉がわからないなぁ」と思いながら観るより、いまはこう言う場面なんだとわかる方が絶対楽しめるはずです。

周りの席の方も冊子を見ながら楽しんでいらっしゃいました。

字幕やイヤホンガイドもよいけれど、自分のペースで読めるのは気安くて良いですね。
私にとっても毎回の永久保存版です。


さて。
今日、武田志房ゆきふさ師の独吟どくぎん景清かげきよ」を聴いていて、不思議な感覚になりました。

能という芸能は、囃子や地謡じうたい、装束や舞台演出が重なって、一つの世界が立ち上がります。

けれど独吟は違います。

舞台には一人。扇を持ち、ただ謡うだけ。

演出もBGMもありません。

だからこそ、純粋に「声」と「語り」の芸なのだと改めて感じました。


武田志房師が謡い始めると、文句や節回しを追うよりも先に、その声――いや、ぎんというべきなのか、その響きそのものに引き込まれてしまいました。

景清かげきよの心が、声だけでふわりと目の前に現れる。

「目こそ暗けれども……山は松風。すは雪よ。見ぬ花の覚むる夢の惜しさよ。」

このあたりは特に胸に迫りました。


そしてそのとき、
「私はなぜこんなにも能に惹かれるのだろう」
という問いが頭に浮かんできました。

そしてふと気づいたのです。
私が能に惹かれる理由は、カタルシスではなく「憧れ」なのだと。

これまでは、自分の経験や暮らし、あるいは心のどこかにある傷や引っ掛かりが、能によって癒やされるからなのだと思っていました。もちろんそれも理由のひとつです。

でも、少し違ったようです。

私はただ、この「能」という世界に憧れている。

すでに能の稽古もしていて、その世界に足を踏み入れていて尚。いや、踏み入れているからこそ、手が届きそうにないその奥深さへなのか…

もっと言えば、どこか懐かしいものに触れている、触れていたいという感覚なのかもしれません。

まだうまく説明はできません。

けれど「憧れ」という言葉だけは、不思議なくらいぴったりとはまりました。

そんな気づきをもらった、今日の独吟「景清」でした。

この「憧れ」の正体は、もう少し能を見続けた先で、少しずつ分かってくるのかもしれません。

ではでは。

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