能初心者が、桜吹雪の中で“理解を手放した夜”――靖国神社 夜桜能
夜、篝火、花吹雪、能。
夢でしょうか? いいえ、今夜の話です。
どうも、私香です。
夜桜能 第一夜は「景清 松門之会釈」。
そのリポートを写真も多めでお送りします。




舞台は真っ暗
開演前、時折吹く風に舞い上がる桜吹雪。
会場からは、歓声ともため息ともつかない声が上がっていました。

18時45分開演。
気温は18度。風が吹くと首筋がすっと冷えましたが、舞台に集中するにはちょうど良い気候だったのかもしれません。

演能中はもちろん撮影禁止
自称・鬼の初心者である私は、能がよくわからないがゆえに、普段はなるべく舞台に近い席を取ります。
細かな所作や声を、少しでも拾いたいからです。
しかし今夜は、かなり後ろの席。
しかも中正面。角柱で舞台の中央は見えません。

はたして、これでどれほど楽しめるのか。
——と思っていたのですが。
これが、
「能は理解しようとせず、感じてください」
と能楽師の方々がよくおっしゃる言葉、そのままの体験になりました。
むしろ、いつも以上に集中できた気さえします。

小書「松門之会釈」では、シテが謡い始める前に笛が奏されます。
景清の内面を表すものだと、事前講座で習いました。
松田弘之師の、むせぶような笛の音。
何も始まっていないのに、すでに胸がいっぱいになる。
その後に続くシテ(景清)の謡。
それは「謡っている」のか、それとも抑えきれない心の叫びが漏れているのか、判然としない響きでした。
この謡は非常に難しい——これも事前講座で聞いていましたが、
なるほど、これかと腑に落ちる思いでした。
講座のおかげで、受け取れるものが格段に増えているのを感じます。
景清は小屋の中。まだ見えていない。
が、その謡から、体も心も痩せ衰えた景清の姿が立ち上がってくるようでした。
今日の席は、宝生能楽堂で言えば最後列よりさらに後ろ、といった距離感。
細かな所作は見えません。
けれど、切なさや悲しさは、確かに届いてくる。
景清は動きの少ない演目です。
謡が聴き取れなければ、その魅力は半減するのでは……と思っていましたが、むしろその謡がよく響いたのです。
舞台の構造なのか、観客の集中力の高さなのか。
「謡宝生」と称される独特の節回しやウキが、野外だからこそ、より鮮やかに立ち上がっていたのか…。
平らに謡われると流れてしまうものが、まわしやウキ(演歌で言うこぶしのようなもの)があることで、耳がそれを知らず知らずのうちに捕えるのでしょうか。
謡い手の力量はもちろんのこと、とにかく、まっすぐ心に届きました。
そして、桜吹雪が——これ以上ないタイミングで降るのです。
たとえば、
「偏に盲の杖を失ふに似たるべし。片輪なる身の癖として。」
と景清が自分を恥じる謡。
現代であれば、放送には乗りにくい言葉も含まれます。
けれど桜吹雪のなかで聴くと、「言葉の是非」という次元そのものが、薄っぺらい判断に思える。
人の尊厳や悲しみの前では、そうした言葉への区分けがいかに表層的か——そんな感覚すら覚えました。
また、
「恥かしや。御身は花の姿にて。親子と名のり給ふならば…」
盲目の景清には、娘の美しさが見えてしまう。
そんなシーンで、桜吹雪がハラハラと散るのです。
最高の演出です。
最後は、鎌倉から日向まで会いに来た娘とは別れ別れになる。
去るのを止めたかったのか、娘の肩に触れる父。
他人のふりをしようとしていた景清が、感情をあらわにした瞬間でした。
その時、互いに体温を感じたはず。その温もりが、別れ別れになった心を支える記憶になるのではないかと思います。
捨てたはずの娘に会えたこと。
寂しさ、切なさ、どうしてもこぼれてしまう涙。
それら人間らしさを取り戻した景清は、きっとこの先、別れさえも心の糧にしていけるのだろう——そう祈りたくなりました。
謡も囃子も、深く心に沁みる一番でした。
最後、全員が揚幕に去り、舞台に誰もいなくなる。
しばしの静寂のあと、ようやく起こる拍手。
その「間」も、忘れがたいものです。
夜桜能は、能に親しんだ方だけでなく、桜の恒例行事として訪れる方も多いと聞きます。
それでもなお、この静けさと拍手のタイミング。
観る側の成熟にも、驚かされた夜でした。



桜の標準木


ではでは。
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