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南部の国は、美しき国でござんす①

モーニング「ひっつみ」

朝6時をまわった盛岡駅の西口。盛岡といえばコーヒーの街なので、朝の一杯と行きたいとこだが、さすがに駅なかも、近くも開いている店はない。
しかし、私は知っている。

盛岡には朝市があると!

タクシーに乗り10分ほどで、5時からやっている神子田の朝市に到着する。年に300日ほど開催しているありがたい朝市には、地元の野菜やくだものだけでなく、パンや天ぷら、ラーメンにコーヒーと朝ごはんもいただける。

奥さんと2人、卵焼きに串カツ、牡蠣のコロッケに「ひっつみ」やらなんやらを分け合う。お腹がすいてがっついてしまったので写真はないけど、何もかもうまい!
とくに、ひっつみは、ごぼうやニンジン、シイタケなどの野菜が入った醤油味の汁のなかに、すいとんをうすく延ばした感じのものが入っている。(生地を”ひっつまむ”から”ひっつみ”らしい)
コメどころで小麦粉とは意外だが、この辺りは稲作地帯ではあるものの「やませ」による冷害でコメがまったく穫れない可能性もあるため、そのリスクヘッジのために小麦や蕎麦といった代替作物が必要だったからだそうだ。

シャキシャキ野菜とひっつみに、ちょっと甘みのある出汁が絡んだあったかい汁は、『壬生義士伝』の主人公吉村貫一郎も愛した味なのだろうか……
中井貴一が食べている姿が目に浮かぶ。
しかし、気づけばもう店じまいがはじまっている。まだ7時半、食後に狙っていたコーヒー屋もいつのまにやら閉店していた。

7時半には、もう終わりの雰囲気

お腹も満たされ、街が動き出すまで時間もあるので、散歩がてらのんびりと中心地まで歩くことに。途中、鉈屋町(なたやちょう)という古い町並みに出た。

盛岡がどこかおしゃれな理由

鉈屋町とは意味ありげな名前だなと思って調べたら、京都から藩主に呼ばれた商人のひとり鉈屋何某さんがつくった街らしい。ちなみに、この場所は奥州街道に加え宮古や遠野に向かう街道の要所であり、北上川の舟運の終着地点。古くから賑わい、鉈屋以外にも1638(寛永15)年創業の木津屋が京都の木津からこの地に移り、今も商売を続けているなど、過去と現在がつながっている。

それは生活から感じられ、この辺りにある大慈清水・青龍水(だいじしみず・せいりゅうすい)という2つの共同井戸からも伝わって来る。

大慈清水
用途は上から飲み水、米磨ぎ水、洗い物、足洗いと定まっている

今もバリバリの現役の井戸は、近所の人たちが用水組合をつくり守っている。青龍水では、ちょうど水を汲みに来ていた近所の人が「飲んでみますか?」と誘ってくださったのでいただくと、とてもやわらかく美味しかった。観光客にそんな声がけができるのも、長い時代の培った余裕なのかもしれない。

ちなみに、そりゃそうだろうという看板を発見!
飛び出し「注意」と言いたかったのか、もしくは、
ついつい飛び出しちゃう、うっかり住人がいるのだろうか!?

ついでいうと、この大慈清水は、近くにある大慈寺の湧水から引かれている。大慈寺は禅宗の中でも少数派の黄檗宗の寺で、京都・宇治の萬福寺の末寺。創建は1673(寛文13)年とある。

1673年といえば、黄檗宗の開祖であるインゲンマメで知られる隠元が来日してから19年、本寺である萬福寺創建からも12年しかたっていない、そんなハイカラで、当時としてはかなりイケてる文化を盛岡は誘致したもんだ。
個人的にも、ちょうど先日、京大の宇治キャンパスに用があり、萬福寺に寄ったばかりだったので、なんだかつながって、ちょっと嬉しい。

黄檗宗は「開梆(かいぱん)」と「普茶料理」がよい

ちなみに、このイケてる大慈寺を創建した徳真道空なる禅僧も盛岡の出身ではないようで、鉈屋町の鉈屋さん、木津屋さんを含め盛岡の街や文化に関係する人のなかには他国人が少なくない。それは、盛岡が近世になってつくられた街だからだろう。

もともと不来方(こずかた)と呼ばれていた小さな集落に、南部の拠点を移そうと計画されたのは戦国末期の南部藩祖となる信直の時代。それまでは、南部の本拠といえば三戸で70キロ以上北になる。そんな遠くで新たに城下町をつくり、盛岡城も完成したのは信直の孫、重直の代になってからだ。

若い街だからこそ(と、いっても400年以上たつけど…)、街を歩くたびにどことなくモダンな香りがするのかもしれない。ニューヨークタイムズもその香りを嗅ぎ取ったに違いない。

と、肴町の商店街にあるミスドで、カフェオレとエンゼルクリームを食べながら考えていた。

とはいえ、まだ9時。しかし、気分は昼過ぎのようだ。


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