電池の切れた太もも|#身体についてのひとりごと
列車が出るまで残り1分。
この列車を逃せば次の列車まで1時間待たなければならない。
何もないJR松山駅でこの長時間はつらい。
「どうする?」
「走る!」
まだ躊躇している私をみどりの窓口に取り残し、妻は猛然と走り出した。止める間もなく自動改札に切符を食べさせ、(これでもう後戻りはできない)。妻は駅の中へダッシュで飛び込んだ。
JR松山駅は高架化されている。
列車の待つホームへ行くためにはビル3階分くらいの高さを登らなければならない。
たったの1分で、普段もはや運動することなどすっかりなくなった私たち50代の夫婦が、そんな恐ろしい高さを駆け上がることができるのか?
「やってやる!」
心の中で宣言し、私も自動改札に切符を食べさせると、全力で走って妻の後を追った。
前に全力で走ったのはいつの頃だったか?
まったく記憶にないくらいの昔だ。
走ることすら、信号の変わりかけに横断歩道を小走りするくらいしかここ何十年もやっていないと思う。
体を動かすことは好きだ。
いや、好きだった。
大学時代は体育会でアイスホッケー、社会人になってからは合気道で全国大会で入賞などもした。
それが転職で地方へ移り住んでしまってから、体を動かすことからいつの間にか遠ざかっていた。
気がついたら腹も出ていた。
しかし時間は1分しかない。
改札もくぐってしまった。
後戻りはできない。
選択肢は走るしかない。
意地でも1分で走り切り、懐かしい我が家へと連れて帰ってくれる特急列車に乗らねばならない。
先を走っていた妻が急に止まった。
焦ってキョロキョロしている。
どっちのホームへ行っていいのかわからないのだ。
「こっちだ!」
私は妻を追い抜き、1番線のホームへと続く階段目がけて急カーブを切った。
階段の下で見上げると階段は思ったよりも長い。
ホームははるか彼方の上空だ。
だが躊躇している暇はない、迷うことなく私は1段飛ばしで階段へ突入した。
「なんだ走れるじゃないか。」
私は心の中で密かにほくそ笑んだ。意外と軽快に階段を走り上がれる自分に自信すら沸いた。
1週間分の旅の荷物の大部分はすでにスーツケースに入れ、ふるさとの東京から今家のある愛媛へと宅急便で送ってある。
スーツケースを持たずに階段を上がれることに感謝した。
あれがあったらとてもではないがこの長い階段は駆け上れなかった。
それでも背中には大きなリュック。両手にはそれぞれバックを持っている。
後ろを走っている妻も似たような格好だ。
今回、東京へは伯父の葬儀で帰った。
つい1ヶ月ほど前、入院中の伯父を見舞った時は、伯父はいつもと変わらず明るい大きな声で話していたので、「まだしばらくは大丈夫だろう」といとこたちと話し合っていたのに、危篤の連絡をもらってからあっという間に逝ってしまった。
「信作!覚えているか?」
ベッドの上で伯父は楽しそうに笑っていた。
「おまえと二人で川へカエルを取りに行ったんだ。泥だらけになってさ。」
「バケツいっぱい取れたね。」
「バケツに入れても入れてもカエルが出てきちまうんだ!まいったよ!あの頃おまえ何才くらいだった?」
「さあね。小学校に入る前くらいじゃないかな。」
「覚えてるか?俺が兄貴んちで寝てたらさ。おまえが飛び乗ってきてさ。ぎっくり腰になっちまった。」
「そんなこともあったかな。覚えてないよ。」
「あん時は俺もまだ大学生だったな。学校が休みでも金がないもんだからどこにも行くところがない。それで仕方なく兄貴んちに行ったらさ、遊び盛りのお前がいて。休ませてくれなかったよ。まったく酷い目にあった。」
楽しそうに伯父は笑っていた。
この旅で最後に会った伯父は、焼却炉から出てきたばかりでホカホカのドクロになっていた。
見ようによっては笑っているようにも見えたが、あの陽気で愉快な伯父の笑顔には遠く及ばなかった。
当然のことながらドクロは思い出を語ることもなかった。
思い出どころか何も語らなかった。
あの白骨を伯父として思い出すのはもうやめにしよう。あれはもう伯父ではない。
大学生だった伯父と遊んでいた頃の私は5才か6才だったはずだ。
そんな小さな私もやがて大学生になり、それからまたさらに30年も経ってしまった!
伯父だって死ぬわけだ。父だって母だってもうこの世にはいない。
あんなに小さかった私だって知らないうちにこんなおっさんになってしまったのだ。
先輩たちがみんなあの世への階段を上ってしまったいても全然不思議ではない。
JR松山駅の階段を駆け上っているとき、
私はもちろんそんな感傷に浸ってはいなかった。
伯父のことも完全に忘れていた。
ただ必死に階段を上り、上で今まさに発車しようとしている列車を、全身全霊無我夢中で目指していた。
快調だった。
「走れる。俺、走れる!」
トン、トン、トンと一段飛ばしで階段を駆け上った。
一方、妻は一段飛ばしはしていない。
見なくてもわかった。
妻は階段を一段一段必死に走っているのが背中でわかった。
実は私は階段の一段飛ばしをこの1年ほどずっとやっていた。
加齢により落ち続けている足の筋肉を付けるためだ。
妻にも勧めたが、妻は「転ぶのが怖い」と言って頑なに一段飛ばしをやろうとはしなかった。
発車のベルはまだ鳴っていない。
「間に合う。少なくとも俺は間に合う。」
私が列車に乗った直後に妻をホームに残してドアが閉まったらどうしよう?
ホームに取り残され地団駄を踏む妻を、窓越しに笑顔で手を振る勝ち誇った自分の顔が脳裏に思い浮かんだ。
「あれを置いて先に行ってしまうのも楽しいな。」
そんな残酷なことを楽しく思い浮かべながら私は階段を息を切らしながら駆け上った。
「でもやっぱり俺だけ列車に乗るのはやめよう。あれが間に合わなかったら、俺も列車に乗らないで一緒にホームで次の列車を待とう。一人で乗って西条の駅であれを待つのはつまらない。西条駅は松山の駅よりもっと退屈だ。それにあいつは待っている間に焦って反対方向の宇和島行きの特急に乗ってしまう可能性もある。そんなことになったら家に着くのは明日だ。」
ホームまであと少し。
もうあと5段ほどで階段は終わる。
その時のことだ。
気がつくと両手を階段につき、顔のすぐ目の前には階段の汚れた石があった。
私は足が止まり、階段で四つん這いになっていた。
オレ、転んだ?
でもつまずいた覚えがない。体のどこも痛くない。
どうだっていい。こうしちゃいられない。
列車がすぐに出るのだ。急いで立ち上がらなければ。
ところが動けない。足が上がらない。階段を踏み込んでも足が棒のようになっていて関節が曲がらない。
「大丈夫ですか?」
後ろから同じように駆け上がってきた若い男性が親切な声をかけてくれた。
ただ心やさしい青年は声をかけてくれただけで、倒れる私に手を貸してくれることもなく、飛ぶように残りの階段を駆け上がると軽やかに列車の中へと飛び込んでしまった。
「どうしたの!大丈夫?」
追いついた妻が心配そうに私を覗き込む。
「い、そ、げ、」
私は声を絞り出した。声も出なくなっているじゃないか!
倒れながらも手を必死に振り回して、妻に早く列車に乗るように伝えた。私の言わんとしていることを理解した妻は、私の荷物を一個だけ持つと、階段を一段一段走り登り、先にホームへとたどり着いた。
うさぎとかめ。
いつだって最後はかめが勝つ。
焦りながらも私は手で上体を起こし、再び走ろうと足に力を入れた。
しかしまた倒れてしまった。
「ちょっと!」
階段の上で妻が心配そうに見ている。
これはまずいことになったのか?
足が麻痺してしまったのか?
特に太ももが動かない。力を入れているはずなのにピクリともももが持ち上がらない。
もしかしたら走るどころの事態じゃないのかも。
とにかくこんな階段の途中で倒れているわけにはいかない。
ゆっくりと膝を曲げて太ももを動かしてみた。
なんとか動く。
ゆっくりと立ち上がる。
重い。
太ももが重い。
ドスン。ドスン。ドスン。
一歩一歩、必死に足を持ち上げ、下ろす。肩で息をしながら歯を食いしばり階段を上っていく。
足は岩を動かすように重くゆっくりとしか動かない。
気持ちが先走る。
私がようやくホームまで上りきると、その姿を見た妻は先に列車へ飛び乗った。
発車を告げるベルが鳴る。
だけど走れない。走ろうとしているのに走れない。
地面が平らになっても足が重く、思うように運べない。
太ももがまるで他人の足のように言うことを聞いてくれない。
重い。とにかく足が重い。
ドスン。ドスン。ドスン。
泥にズッポリとはまっているように両足が持ち上がらない。
それでもできるだけ大股で一歩一歩、列車の入口へ向かう。
1メートルもない距離がものすごく遠い。
ベルが鳴り止んだ。
同時に私は列車の中へ入った。
背後で扉が閉まる。
間に合った。
列車は私たちを乗せて滑らかに走り出した。
妻と手近なイスに倒れるように座り込んだ。
ほっとした。
これで家に帰れる。
「転んだからビックリしたわよ!」
「転んだんじゃない。階段の途中で足が動かなくなったんだ。急に。太ももの電池が切れた。」
妻は笑っていた。
私も笑った。
楽しかった。
列車に間に合ってうれしかっただけではない。二人で全力で走り切ったからだと思う。それがものすごく楽しかった。
若い頃ようにもう階段を上り切るだけの体力がないとわかったのに、とにかく楽しかった。
たとえ年を取って体力が落ちても、限界まで体を使うのはとても清々しい。
それを再び思い出せたのがとてもうれしかった。
体験できたのが奇跡のようだった。
本当に若返ったようだった。
太ももの電池切れは、車内で水を飲むと回復してくれた。
もっと年を取れば、もっといろんな所が電池切れを起こすだろう。
そしてやがて心臓や頭も電池が切れて、水を飲んだってもう二度と回復することもなくなる。
それだっていい。
どうせいつかは私もホカホカのドクロになるのだ。
それまでの間、全力で体を使おう。
だってこんなに楽しいのだから。
また電池が切れたっていい。
思いっきり走ろう。
車窓を流れていく瀬戸内海の景色を、まるで自分が走っているかのように眺めた。
「そういえば、あの若い人、親切だったわね。『大丈夫ですか?』って声をかけてくれて。」
妻が思い出させてくれた。
「そうだったね。声をかけてもらってうれしかったよ。」
車内を見回してもそれらしい青年は見当たらない。他の車両に乗っているのだろう。
「うふふ。二度も転ぶなんて。」
また妻が笑い出した。
「転んだんじゃない。太ももの電池が切れたんだ。プッツリ動かなくなった。こんなの初めてだ。」
私も笑った。
あの声をかけてくれた青年は、もしかしたら若い頃の私自身だったのかもしれない。
「大丈夫ですか?」
若い頃の私は年を取った私を心配している。
「大丈夫ですか?」
「ああ大丈夫だ。不安はあるけど大丈夫だ。だっておれは一人じゃないから。」
