図書館は、コミュニティの場ではない。
図書館をコミュニティの場にすること。それは知的退廃である。
マルクスは本を借りなかった。大英博物館の図書館に通い、膨大な一次資料を渉猟し、『資本論』を書いた。図書館とはそういう場所だ。調べるための場所。思索のための空間。静寂の中で、一人の人間が世界と格闘する場所である。
それがいつから、「コミュニティの場」になったのか。
静岡県が進める新県立中央図書館の計画が、事実上の白紙に追い込まれた。総事業費298億円。国の交付金を136億円あてにしていたところ、実際には34億円しか出ないと通告された。100億円の穴が空いた。設計まで進めておいて、である。
驚くべきは財源不足そのものではない。構想の発想そのものだ。「伊豆からも来てもらう」。担当者はそう語っていたという。伊豆から。静岡県東部の、あの伊豆から、図書館に来てもらう。それはもう図書館ではない。観光地の発想だ。集客施設の論理だ。図書館は「来てもらう」場所ではない。日常の射程距離にあるものだ。
思い出すのは富士山静岡空港だ。
静岡県民の悲願として作られたが、福岡便に誰が乗るのか。静岡から福岡へは新幹線で行ける。需要の実態を見ずに「あれば使われるだろう」で作る。見栄が先にあって、需要は後付けだ。図書館計画は、同じ過ちの二周目である。静岡県はまだ懲りていない。
ある地方都市に、レンタルビデオチェーンが管理する図書館ができた。一階にはスターバックス。二階の席は自習室と化している。人は確かに集まる。だが本を読んでいるわけではない。それでも「利用者数」は増える。役人の報告書は「賑わい創出、成功」と記録される。
だったら自習室を作ればいい。カフェを作ればいい。なぜ「図書館」という看板を掲げる必要があるのか。答えは簡単だ。「図書館」というラベルがあれば、予算がつくからだ。文化的事業として正当化できるからだ。ラベルだけが残り、中身は別のものになる。これをラベルの呪いと呼ばずして何と呼ぶか。
本の基本は身銭を切ることだ。
買って、手元に置いて、書き込んで、何度も戻る。それが読書というものだ。「貧困層はどうするのか」という反論が必ず来る。しかし彼らはディズニーランドに行くお金はある。優先順位の問題であって、図書館を無料にする理由にはならない。格差は永久になくならない。その格差を埋めるために、教育訓練給付金がある。ハローワークがある。セーフティネットはすでに存在する。「図書館無料」でなければ格差だというのは、論理ではなくポジショントークだ。
では図書館は何をすべきか。
答えはシンプルだ。デジタルアーカイブを整備する。絶版書、希少資料、一次資料のデジタル化を進め、国会図書館モデルで有料アクセスを提供する。法整備は必要だが、方向性は明快だ。大きな箱はいらない。
そして今、現代人に本当に足りないものは何か。情報ではない。本でもない。場所だ。空間だ。タイパ、コスパの時代に時間はどんどん節約される。しかしカフェは混み、自習室は埋まる。居場所の需要はすでに市場が証明している。
ならば行政がやるべきことは決まっている。
サテライトオフィスを借り上げ、複数拠点を作る。初期投資は最小限。コンテンツは民間と個人が持ち込む。コミュニティがしたいなら、会議室を借りて公開講座を開けばいい。受講料でレンタル代はペイする。図書館の管理スタッフを雇用として地域に還元する手もある。298億円のハコモノより、はるかに誠実な公共投資だ。
器を作るな。場所を借りろ。
静岡はすでに一度失敗している。富士山静岡空港という、見栄の記念碑を作って。図書館で同じ過ちを繰り返すのか。ハコモノへの欲望。広域集客という幻想。ラベルだけの文化行政。この三点セットこそが、知的退廃の正体だ。それが298億円を飲み込もうとしていた。
辛うじて、国が止めた。皮肉な話である。
#図書館 #公共政策 #ハコモノ行政 #静岡 #デジタルアーカイブ #ラベルの呪い #地方行政 #知的退廃
