NENEのラジオを聞いて~HIPHOP村の矛盾~
7月8日、とあるラジオ番組にて、ラッパーのNENEがHANAとちゃんみなに向けたビーフ曲の背景を語った。彼女の怒りの主な要因は以下の3点である。
●HANAの「Burning Flower」が自身の楽曲に酷似しており、明確な「パクリ」だと確信している点。
●MUSIC AWARDS JAPANのヒップホップ部門に、ちゃんみなやXGといった「ポップス寄り」のアーティストがノミネートされたことへの憤り。
●商業的成功を目指すアーティストが、ヒップホップを「金儲けの道具」として利用しているという事への嫌悪。
❶NENE姉さん、ホンマに「パクリ」やと思ってたんや!
このラジオで最も印象的だったのは、NENEが「Burning Flower」を自身の楽曲の「パクリ」だと本気で信じていたことだ。
私は当初、この「パクリ」発言はビーフを盛り上げるための演出だと考えていたが、どうやらNENEは真剣だったようだ。
ラジオでNENEの肉声を聞いてそう感じた。(話を聞いているとNENEさんは決して嫌な感じはしなくてピュアな人なんだろうなぁと言う印象)
番組内でNENEは「“アツい”といえばNENEという認識は世間に広まっていた」「周囲の人も“これは完全にやられてるね”と言っていた」と、明確な確信を持って語っていた。
この発言から私が感じたのは、NENEの「純粋さ」だ。まるで「私の真似しないで!」と駄々をこねる子どものように、彼女はとても素直に憤慨していたのだ。
NENEのリアクションを見るに、SKY-HIのアンサー「あなたが『アツい』をパクリだと告発する時、あなた自身は郷ひろみの『あちち』をパクっているのではないかという自己疑念を微塵も持たないのだろうか?」という皮肉の意味を汲み取れていないんだろうなぁと思った。

❷クリエイティブは誰のもの?
当然のことながら「アツい」「炎」「夏」「水着」「砂浜」といった表現や演出は、NENEが独自に発明したものではなく、誰もが使える共有された文化的モチーフだ。
もしこうした一般的な表現の重なりを「模倣」と断定するなら、創作活動そのものが成り立たなくなる。
NENEが放った「真似するな」という独占欲は、やがて彼女自身に跳ね返ってくることを想像していないようだ。
SKY-HIが指摘するように、他人の表現と自作の共通点を指摘し「パクリだ」と主張するのであれば、自身の作品にも同じ基準を当てはめ、過去のあらゆる表現との類似性を検証しなければならない。
「ボンネットの上で踊るMVは過去になかったのか?」「水着姿の女性が砂浜で踊るMVは皆無だったのか?」──それをすべて調べ、似ていたらやめるという発想は、まさにNENE自身の創作活動を窒息させる行為にほかならない。

❸「想像力は無限だ」は嘘!
そもそも、人間の想像力には限界がある。
「想像力は無限だ」とよく言われるが、実際には人々が「共感」や「快楽」を感じ取れる範囲には限りがある。
限度を超えると、それは「ノイズ」として拒絶されてしまう。だからこそ、表現が「似通う」ことは自然な現象なのだ。
ここで立ち返るべき問いがある。
「文化・芸術・表現とは、誰のものなのか?」
それらは模倣・引用・変形の連鎖によって生成される「開かれた生態系」である。完全なオリジナルなど存在しない。すべての表現は、過去の作品との無数の関係の中で立ち現れるものだ。文化とは、境界を越え、混じり合い、進化し続けるもの。それを「私のものだ」「使うな」「触れるな」と言って囲い込もうとする行為は、創造性の本質に反する。
NENEはポップス勢を「商業的だ」と批判した。しかし、自身が「夏・水着・アツい・炎・砂浜」といった誰もが自由に使えるはずの表現を「私のものだ」と主張し、独占しようとしている姿こそが、まさに商業的発想そのものではないか。本来、人類の共有財産である表現を「所有」という概念で囲い込もうとする振る舞いに、彼女自身が無自覚である点こそが最大の問題だと私は感じた。
例えば……想像してみてほしい。
・シェイクスピアの管理団体が『ウエストサイド物語』に「ロミオとジュリエットの真似をするな」と抗議したら?
・サザンオールスターズがTUBEに「湘南と夏は俺たちのものだ」と訴訟を起こしたら?
・ジャズやレゲエのレジェンドたちが、ストリートの若者たちに「サンプリング使用料を払え」と迫っていたら?
そんな世界に、ヒップホップは生まれなかったはずだ。
❹「MUSIC AWARDS JAPAN」ノミネーションへの不満
NENEは、MUSIC AWARDS JAPANのヒップホップ部門に、ちゃんみなやXGといった「ポップス寄り」のアーティストがノミネートされたことに対し、彼らが戦略的にヒップホップのカテゴリーを利用してアンダーグラウンドのラッパーたちの機会を奪っていると憤っていた。
しかし、賞を与えているのはMUSIC AWARDS JAPANの運営側であり、アーティストたちに矛先を向けるのは筋違いだ。

❺アングラ系ラッパーの無自覚な矛盾
私は以前から、一部のアンダーグラウンド系ラッパーのリリックにある種の違和感を抱いていた。
彼らはこう言う──
「俺たちは稼いでる」「Make Money」「俺の方が金持ってる」──
また一方で彼らは
「商業主義はクソ」「金じゃないものがある」──と。
どっちなん? 金が欲しいのか? 金じゃないのか?
もちろん、これはヒップホップ的な“様式美”として流してもいい部分だ。
だが、本人たちがその矛盾に無自覚でいると、今回のような“ダル絡み”が発生してしまう。NENEも、「資本主義はクソだ」と言いながら、その資本主義の象徴的装置であるMUSIC AWARDS JAPANのヒップホップ部門にはノミネートされたいという、見事なダブルスタンダードを地で行っている。
「奴らからしっかり上納金をせしめてやる」とクールに言い換える事も可能だが、その瞬間資本主義の枠組みに取り込まれていることも自覚すべきだ。
まるで、純文学を自ら選んだ作家が「なぜ俺の小説は少年ジャンプのように売れないんだ!」と怒っているような光景だ。
売れたいなら、大きなマーケットで売れるものを書けばいい。
純文学を選んだなら、それなりの市場規模で勝負する覚悟が必要だ。
同じことがアングラHIPHOPにも言える。
SpotifyやApple Musicといったプラットフォームは、ポップス勢が稼ぐことでシステムが維持できている。あらゆるアングラ音楽はその構造に依存して音楽アプリの中に居るのだ。
❻歴史は繰り返す
23年前、今回とよく似た出来事があった。
当時、大ブレイクしていたロックバンドが、あるラッパーのスタイルを真似た曲をリリースした。
だが、それを真似された側は許せなかった。
“借り物のスタイル”で成功する姿がシーンへの裏切りに映った。
怒りはビーフとなり、相手を正面から撃ち抜いた。
シーンはざわつき、賛否が渦巻いた。
しかし、矢を受けた側は何も言わず、そのままヒップホップの世界から姿を消した。
その曲名は──「公開処刑」。
放ったのは、他でもないZeebra。
相手は、ロックとヒップホップを融合させて時代のカリスマと呼ばれていたミクスチャーバンドDragon Ash。
Zeebraはその成功に、“真似すんな”という怒りをぶつけ、言葉の刃で切りつけた。結果、Dragon Ashはアンサーを返さず、ヒップホップの土俵から身を引いた。
今回のNENEとHANAの構図は、あの時の騒動を彷彿とさせる。
「公開処刑」から13年後、Zeebraは『フリースタイルダンジョン』を立ち上げる。この番組は、ヒップホップというカルチャーを、ポップスと並ぶマーケットへと押し上げる起爆剤となった。
オーガナイザーは、かつて“線を引いていた”当の本人だった。
Zeebraもまた、かつては“表現の所有”を主張し、怒りを武器にしていた。
しかしそれでは何も変える事は出来なかった。
ヒップホップはアンダーグラウンドのままだったしポップスは依然として社会のど真ん中に居た。
世界を変えるには、資本主義の構造を読み解き、新しいゲームを仕掛けるしかない。
Zeebraはクレバーだ。それでも気づくのに13年かかった。
Zeebraが「公開処刑」をリリースしたのは、今のNENEと同じ31才の時だった。NENEのHAJIMARIはここからだ。

