HIPHOPは伝統芸能化する【リアルなラッパーのお説教癖】
NENEのビーフ曲「オワリ」は、ガールズグループHANAとの衝突を越え、日本のヒップホップシーンに爆弾を投じた。過激なリリックは「正論」と称賛される一方で、その裏に潜む歪みがジャンルの未来を揺さぶる。
なぜこの曲はここまで議論を呼ぶのか?その核心に迫る。
❶「パクリ」の曖昧な境界線
NENEがHANA&ちゃんみなを批判する主な根拠は「パクリ」だ。
NENEはHANA の Burning FlowerのリリックやコンセプトやPVの演出が彼女の作品を模倣していると主張する。しかし、その例として挙げられた「あっちー」という言葉や「炎」の演出は、NENEが独自に生み出したものではなく、一般的に広く使われる表現や普遍的なモチーフの一部に過ぎない。
このレベルの共通性を“模倣”と断じるのであれば、あらゆる表現行為は身動きが取れなくなり、創造の自由は大幅に制限されてしまう。
言うまでもないが「炎」は神の著作権物だ。誰のモノでもない。
NENEの批判は、感情的な敵意の表明として共通項を“パクリ”と短絡的に断罪してしまっているように見える。
そこにあるのは、客観性を欠いた一方的なジャッジメントである。

❷ヒップホップは誰のものか?「純粋性」の落とし穴
NENEのビーフの真の意図は、おそらく「自分たちが築き上げたヒップホップのスタイルや精神性が、商業的な目的のために安易に消費されている」という怒りにあるのだろう。ヒップホップの「純粋性」を守りたいという彼女の思いは理解できる。
しかし、日本のヒップホップの歴史を紐解けば、その成立の過程自体が、NENEの主張する「純粋性」とは異なる道を辿ってきたことがわかる。
日本のヒップホップは、大衆歌謡との結合から始まり、一般へと浸透していった。その後、ヤンキー文化との合流によって特定のメッセージ性を獲得した時期もあったが、それはジャンル全体のごく一部に過ぎない。
日本のヒップホップは常に多様な文化や表現を取り込み、変容することで発展してきた。2000年代にはアウトロー層への偏重が見られシーンは一時的な閉塞に陥った。その打開を目指してZeebraや漢 a.k.a. GAMIらはフリースタイルバトルをエンタメとして再構築し、一般層への回路を開きHIPHOPは一気にその裾野を広げる。
NENE自身も、この広がりの恩恵の上に立っている存在であることは否定できない。それにもかかわらず、彼女が特定の時代やスタイルを唯一無二の“正統”と見なし、他者を排除しようとする姿勢は、独善的で危うい。表現の正当性を検閲し、ジャンルの定義を独占しようとする行為は、自由な創造性を圧迫し、やがてヒップホップそのものの硬直と衰退を招くことになる。

❸ ビーフの“プロモーション性”が抱える構造的矛盾
ヒップホップにおけるビーフは、しばしばシーンを活性化させる装置として機能してきた。対立構造が話題を呼び、注目を集め、再生数や売上を伸ばす――いわば「ブレイキングダウンの煽り動画」と同様のプロモーション効果を持つ。
実際、今回のビーフによって、NENEの注目度や影響力は飛躍的に高まった。だが、皮肉なことにNENEが攻撃対象としたのは、まさに“商業主義の象徴”ともいえるガールズグループだった。
にもかかわらず、自身のビーフが商業的露出の手段となってしまったことで「商業主義を批判しながら、その構造に乗っている」という自己矛盾が際立つ結果となった。
さらに問題なのは、このビーフがジャンルの外部つまり一般層に与える印象だ。ビーフ文化の文脈を知らないリスナーにとって、攻撃的なリリックは単なる「悪口」や「いちゃもん」として映りやすく、ヒップホップ全体への忌避感や誤解を生む。
かつてZeebraや漢らが、ヒップホップをアウトロー文化の内側に閉じ込めず、大衆との接点を模索し続けたのは、まさにこのような“誤解の回避”と“開かれた場”を意識してのことだった。
NENEのように“内輪の論理”を絶対視し、外部にまで押し付ける振る舞いは、その逆を行くものである。結果として、ヒップホップは「限られた者だけが語れる閉鎖的な世界」として再び縮小され、やがて伝統芸能のような硬直したジャンルへと変質してしまう可能性を孕んでいる。

❹ 「文化盗用」と言う概念の誤用
今回のビーフをめぐり、「文化盗用こそが問題だ」とする声も一部から上がった。だが、その多くは「文化盗用」という概念を、歴史的背景も哲学的文脈も理解しないまま、“他者攻撃の道具”として振り回す誤用に陥っている。
ヒップホップとは本来、貧困と抑圧のなかで既存文化を再編集し、引用や模倣を通して創造してきた文化である。ターンテーブルでブレイクを繋ぎ、無許可サンプリングの上に築かれた歴史を見れば「真似すんな」という主張そのものが、ジャンルの出自と矛盾している。
ではなぜ、ヒップホップの一部の人々は“模倣された”ことに怒るのか?
そこには、アメリカと日本とで「真似」にまつわる文脈が全く異なるという、重要な背景がある。
A. アメリカの「真似するな」は“搾取”の歴史
アメリカの黒人文化は、奴隷制・差別・暴力といった長期的な抑圧構造のなかで生まれてきた。
ジャズ、ゴスペル、ファンク、R&B、ストリートアート、文学運動──それらはすべて、搾取される側が生み出した抵抗の美学だった。
その文脈を無視して白人がそれを「商品化」することへの怒りは“歴史の収奪”に対する告発なのである。
B. 日本の「真似すんな」は“情熱と様式”の齟齬
一方で、日本の一部ラッパーが抱く怒りの多くは、「魂がこもっていないのに、スタイルだけを真似している」という“フェイク批判”に近い。
そこには被差別の歴史は存在せず、単に「自分たちの努力や熱量が軽んじられている」と感じる内面的な美学の問題である。
これを「文化盗用」と結びつけるのは、明確に論理のすり替えであり、黒人の歴史的苦悩を“正義の錦の御旗”として借りてくる行為に他ならない。
このような“黒人の苦悩のレンタル使用”は、倫理的にも極めて軽薄であり、「文化盗用」という本来の倫理装置の信頼性を自ら損なうことになる。

❺ ヒップホップは誰のものか?
ヒップホップは誰のものか?──その答えは明白である。
ラップという形式自体が、そもそも「覚悟のある者だけが触れていい神聖な武器」だったわけではない。
ヒップホップの誕生は「やってみようぜ」の遊びから始まり「楽しいから真似してみた」が起点だった。
その文脈に、後から自己神話化された正義を後付けするのは、本質を見誤る。
ヒップホップは誰のものではなく、誰もがアクセスできる「形式」であり、「運動」であり「共振装置」である。
それを私有化し、独占し、「お前はフェイク」と断じることは、むしろヒップホップを“制度”で縛り付け窒息させる可能性がある。

❻音楽と資本主義
NENEのビーフは、商業主義の横暴やクリエイター搾取への怒りを帯びている。しかし我々はこう問い返さずにはいられない──NENE自身、そしてヒップホップというジャンル全体は、果たして本当に資本主義から距離を取れているのだろうか?
ラップは抗議の声であり、同時にSpotifyの再生数で競うビジネスでもある。ストリートから始まったヒップホップは、今や広告とランキングとアワードの中で流通し、資本の文法で“価値”を測られている。怒りさえも消費される時代において、抵抗の表現がいつの間にか「商品」に堕していないと言い切れるだろうか?
ここで思考を深めよう。仮に資本主義が存在しなかったら、音楽はもっと純粋で自由だったのか?否。中世の宮廷音楽も、宗教音楽も、常にパトロンや権威の意向によって方向づけられていた。つまり音楽は古来より何らかの「権力構造の中」で生まれている。
資本主義は残酷だ。しかし同時に、未曾有の情報流通と音楽の民主化をもたらしたシステムでもある。YouTubeやSoundCloudがなければ、NENEの声は全国に届いただろうか?
ゆえに私たちはこう問わねばならない。
資本主義に搾取されない表現とは何か?
そもそも表現は、どんな社会構造の中でも“純粋”であり得るのか?
そして、怒りや抵抗の声が、自己のブランドを強化する“資本”にもなり得る時代に、何がリアルで何が演出なのか?
私は今回の騒動が、ヒップホップという広大な文化の未来を、より開かれたものへと導くきっかけとなることを願ってやまない。

❼ちゃんみなからのアンサー
ちゃんみなからのアンサーはもう既に「I'm a Pop」と言う楽曲になって出ている。
「I'm a Pop」に込められたメッセージは「誰も音楽の自由度を奪う事は出来ない」だ。
この曲の歌詞は日本語と韓国語と英語のMIXで綴られている。
この三か国語の混成にも、ある意図が込められている。
政治が国境という境界線を築き、人々の間に分断を生み出す一方で、文化や芸術は、こうした人為的なボーダーを軽々と突破する。
音楽を含むあらゆる表現は、特定の個人や集団によって独占されるべきものではない。
文化の進化は、絶え間ない模倣と交じり合いのプロセスを通じて実現される。それは、異なる音階が融合して新たな調和を生み出す音楽のメタファーにも似て、多様な要素が相互作用することで、絶えず新しい形態を生成するダイナミックなシステムだ。この観点から、文化はまさに開かれた人類共振装置と定義され得る。
私はこんな風に小難しくしか言えないが、ちゃんみなは「I'm a Pop」と見事に一言で表現している。 おわり

