飛んだ虚無僧
その虚無僧は、
飛んだ。
悟ったからではない。
火薬を背負っていたからだ。
江戸の外れ、
湿った魚と政治が腐っている運河地帯で、
虚無僧たちは、
毎晩、
尺八を吹きながら失業していた。
昔はよかった。
吹けば、
大名が泣き、
町娘が脚を開き、
坊主が嫉妬で病気になった。
だが時代は変わる。
権力は、
音楽より書類を愛するようになった。
幕府は、
「呼吸取締令」を出した。
長すぎる息は禁止。
悲しみを含む低音は禁止。
個人的な余韻には、
年貢がかかる。
役人たちは、
演奏後の沈黙を升で量った。
長く黙る者ほど、
多く取られた。
虚無僧たちは困った。
彼らの仕事は、
息そのものだったからだ。
そこで、
最年少の虚無僧、
黒羽の寂念が言った。
「飛べばいい」
誰も意味が分からなかった。
意味が分からない提案ほど、
だいたい革命に近い。
寂念は、
古い尺八を改造した。
穴を増やし、
火薬を詰め、
内部へ、
禁制のジャズを圧縮した。
吹くと、
音ではなく推進力が発生する。
最初の実験で、
犬が三匹、
思想的に爆発した。
二度目は成功だった。
寂念の身体が、
夜空へ浮いた。
編笠が、
月をこすった。
袈裟が燃え、
空に巨大な読経の匂いが広がる。
下で町人たちが騒ぐ。
「坊主が空へ逃げた!」
「いや、
あれは宗教ではなく速度だ!」
寂念は飛ぶ。
屋根を越え、
貧困を越え、
行政区画を越え、
水子供養の看板を蹴散らしながら。
尺八は泣いていた。
いや、
笑っていたのかもしれない。
高音部で、
何人かの役人が失禁した。
空の上には、
別の虚無僧たちがいた。
昔、
取り締まられて消えた者たちだ。
みんな編笠を被り、
静かに浮遊している。
成仏ではない。
保留だった。
「地上はどうだ」
老人の虚無僧が聞く。
「息が狭い」
寂念は答える。
老人はうなずく。
「だろうな。
だから我々は上へ腐った」
雲の内部には、
巨大な寺が隠されていた。
鐘の代わりにサックスが吊るされ、
木魚の代わりに心臓が脈打っている。
坊主たちは、
酒と経典を混ぜて飲んでいた。
酔うたび、
般若心経の一部がブルースになる。
「色即是空」
黒人のドラマーが叩く。
「空即是スウィング」
すると雲が揺れる。
翌朝、
江戸じゅうの瓦版が、
同じ見出しを刷り競った。
《飛行僧、
昨夜三名確認》
《上空にて読経爆発》
《婦女子、
理由なく失神》
瓦版売りたちは、
橋の上で声を張る。
「空を飛ぶ坊主だよ!
恋に効くぞ!」
「幕府公認の不安だ!
一枚八文!」
寂念は笑う。
笑った瞬間、
編笠の内側で、
大量の星が腐敗した。
宇宙には、
保存期限がない。
だから腐る速度だけが増え続ける。
夜明け前、
幕府の役人たちが大砲を持って現れた。
「不法飛行僧を撃墜せよ!」
だが、
もう遅かった。
虚無僧たちは、
全員、
音になっていた。
尺八の低音だけが、
江戸中へ降り注ぐ。
長屋の女たちが、
理由もなく濡れ、
魚屋が突然詩を書き始め、
侍たちは切腹のフォームで踊り出す。
朝になる。
空には、
焼け焦げた編笠が一つだけ落ちていた。
拾い上げると、
内側に小さく文字が書いてある。
「舞え」
