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レイコの自分⇔自分 お悩み相談室   2021年57歳「小説を書いてみました」


小説 「髪を切ってもらうなら」


 離婚届に印鑑を押したときも、「やっぱり、わからないな」と思った。
 私が悪かったのだろうか。三千夫の気持ちに気づいていなかった私が。
 彼は出て行ってしまったので、この家にはもういない。この離婚届も、一人で出しに行く。まあ、離婚届を二人で出しに行くような夫婦もあまりいないだろうけど。

 たいして広くもない2LDKのマンション。三千夫は家具を一つも持って行かなかったのに、一人になったら、やけにがらんとして寒々しく感じる。こんなことになるなら、家を買う必要もなかったのに。

「この家は繁美ちゃんにあげるよ」
「名義は半々でしょ。もらっても、ローンもまだ十年以上も残ってるし」
「権利は手放すから。売ったりとか、貸したりとか、繁美ちゃんの好きなようにして。僕が繁美ちゃんにできることは、もうそのくらいしかないから」  
 その言葉で、彼はこの場所には既に何の未練もないのだと、改めて気づかされた。

 「つきあってる人がいる。離婚して欲しい」と、三千夫が言ったとき、私ははじめ、彼が何を言っているのか理解できなかった。
 だから、「今の、このコロナの中で?」と、まるで他人事みたいな反応をしてしまった。
 でも、「このコロナで世の中がこんなことになって、みんないつどうなるかわからない。だから、本当に生きたいように生きようと思うんだ」と真顔で返された。

 三千夫とは大学で出逢ってすぐに、当時、彼が借りていた部屋に私が転がり込んで、一緒に暮らし始めた。彼は、洗濯も掃除も得意で、私よりもはるかに丁寧に細やかにやっていた。彼が作る料理は全部美味しくて、「お店できるよ」と何度も言うくらい、感動しながら食べた。
「ごめんね、いつも家のこと、いろいろやってもらって」と言うと、
「得意な人が気づいた時にやればいいんだよ」と、彼は優しく笑っていた。
 そんなふうに、ずっと彼に甘えっぱなしだったのがいけなかったのだろうか。

 離婚届をトートバッグに入れて外に出ると、冷たい風が肌を刺した。マスクをしているので、息苦しさはあるけれど寒さは少し和らぐ。無造作に束ねた髪が乱される。
 空は雲ひとつない快晴だ。
 世の中は未知のウイルスの出現で、閉塞感いっぱいな感じ。自分自身も思いがけない離婚で、孤独感いっぱいな感じ。それでも空が晴れ渡っていることには、ちょっとだけ救われるような気もする。だけど、足取りは重い。

  区役所からの帰りに、美容室の看板がふと目に入ったとき、「そうだ、髪を切ってしまおう」と思った。
 その小さな美容室の白い木の扉を開けると、「いらっしゃいませ」と、マスク姿のほっそりとした美容師さんが迎えてくれた。
「失礼します。まず、体温を測らせてください」
 手慣れた様子で美容師さんは、非接触型の体温計を私のおでこにかざした。
「ご協力ありがとうございます。お手数ですが手の消毒もお願いします」
 そう促されて私は、カウンターの上にあるポンプを押して、アルコールジェルを手になじませた。

「ごめんなさい。初めてで、予約もしてないんですけど、やってもらえますか?」
 店内はイスが2席だけで、お客さんはいなかった。
「ちょうどキャンセルがあったところなので、大丈夫ですよ」
「バッサリ。バッサリいっちゃって欲しいんです」
 美容師さんは少し間を置いてから、「わかりました。まずは、カウンセリングしましょう」と言った。

 気持ちが前のめっている私を落ち着かせるように、美容師さんは、カウンターの横にあるソファに案内すると、自分はテーブルを挟み少し離れて、向かいのスツールに座った。マスクで半分顔が隠れているが、よく見ると目鼻立ちが整っていることがわかる。男性だと思うが、話し方が柔らかく、身体の線も細いので女性に見えなくもない。

 フルネームを訊かれたので、答えた。
「繁美さん」
 いきなり、苗字ではなく名前で呼ばれて、ちょっとソワソワした。
「今の長さまで伸ばすのには、何年もかかっていると思います。バッサリというのは、どのくらいの長さを考えていますか?」
「耳とうなじが見えるくらいで」
 美容師さんはすぐには返事をせず、私の顔を見つめた。なんだか気持ちを測られているように感じて、少しためらったけれど、言った。
「男の人みたいになりたいんです」

 三千夫の新しいパートナーは男性だった。
 結婚しているのに恋人を作ったこと。
 その恋人が女性ではなく男性だったこと。
 この閉塞的な状況の中で、その相手と頻繁に会っていたらしいこと。 
 考えようとすればするほど、頭の中がロックダウンされたみたいに動かなくなって、どこから突っ込んで、どうやって怒ったらいいのかもわからなかった。

「なぜ、敢えて男の人のように?」
 美容師さんは、スケッチブックと鉛筆をテーブルの下から取り出しながら言った。 
 初対面なのに、と思ったけれど、初対面だからこそ言ってしまおう、と思い直した。
「私、離婚したんです」
 美容師さんは、大抵の人のような、驚いた反応はしなかった。
「少しの間だけ、マスクを外してもらっていいですか」
 何をしているのか、と思いながら私は口を閉じてマスクを外した。 
 美容師さんは私の顔を見ながら、サラサラと鉛筆を動かしている。
「ありがとうございます。どうぞマスクを戻して、お話を続けてください」 
 すっかりこの人のペースみたいだ。

「夫には、いえ、元夫には男の恋人がいました」
 美容師さんは少し顔を上げた。
「私は、彼の変化も何も全然気づいてませんでした。彼に、相手の顔が見たい、とせがみました。どんな人が彼の心を奪ったのか確かめたかったから。彼は、最初は首を横に振ったけど、見せて欲しいと言い続けたら、スマホで撮った写真を見せてくれました」
「どんな人でしたか」
「短い黒髪の、どこにでもいそうなサラリーマン風の人でした」
「その人を見て、どう思いましたか」
 私は両手をぎゅっと握りしめた。
「出逢ったばかりの頃、彼は私の髪をきれいだって褒めてくれました。結婚してからも変わらず、褒めてくれました。それが嬉しくて、私、不器用で家事も全然ダメなんですけど、髪を伸ばして、手入れだけは頑張っていました。今は、こんなですけど」
 三千夫から恋人がいると聞かされてから、食欲も落ちて、夜も眠れなくなって、髪も肌もみるみる艶を失くしていった。

「彼はこの髪を愛してくれてるって信じてたのに、髪なんか、全然関係なかった」
 目を閉じて、握りこぶしで抑えようとしたけれど、勝手に涙がどっとあふれてきた。
「相手の写真を見た瞬間、彼は本当に本気なんだと思いました。私は、髪の短い男の人に負けたんです。女としての魅力も足りない。だから、この髪はもう、いらないんです」

 いきなり、おんおん泣かれて迷惑だろうに、美容師さんは何も言わずに、ティッシュを箱ごと私の手に持たせてくれた。
 どうして私じゃダメだったんだろう。
 こんなことになるなら、髪なんて伸ばさなくてもよかった。
 一人の時もこんなに泣かなかったのに。マスクが涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。

 なかなか止まらない涙をティッシュで拭いているうちに、なんだかほんのりいい匂いがする? と思ったら、目の前のテーブルに個包装されたマスクと一緒に、温かそうなカフェオレが置いてあった。
 トイレを借りて、涙を拭いて鼻をかみ、マスクをつけ直してソファに戻った。
「いただきます」
 一口飲んだカフェオレのぬくもりが、胸からお腹のあたりに染み渡る。「ごめんなさい。ありがとうございます」
 美容師さんは頷いた。

「僕、この見た目なので、よく女性だと思われます。だから、美容学生だった頃はわざとロングのウィッグをつけて、メイクもして、声をかけてきたナンパ男にご飯を奢らせてたこともありましたよ」
 そう言ってマスクを外して見せてくれた笑顔は、やっぱりとてもきれいだった。
「見た目は、『私はこういう者です』って掲げる看板のようなものです。だから、自分が思う、なりたい自分を自由に表現してみませんか?」
 なりたい自分?
 自由に表現?

「繁美さんも毎日鏡を見ますよね。今日ここで、つらい気持ちのまま髪を切ったら、これから毎日、鏡を見る度にその気持ちを繰り返し思い出すでしょう。それでもいいからどうしても髪を切りたいと言うのなら、僕にはできないので、他へ行って切ってもらってください」
 美容師さんは、初めと変わらない優しい目と柔らかい声で、はっきりとそう言った。
 他へ行けだなんて、そんなこと言っちゃっていいの?
「でも、こんなふうになりたい、っていうイメージや気持ちがあるのなら、喜んでお手伝いをさせてもらいます」

 美容師さんは、私の話を聞きながら何かを描いていたスケッチブックをこちらに向けた。そこには、耳とうなじを出したショートヘアと、丸みのあるシルエットのショートヘア、あごのあたりで切りそろえたボブの、三種類のヘアスタイルの私が描かれていた。みんな、微笑んでいる。
「見慣れないので違和感があるかもしれませんが、こんなふうにどれでも繁美さんに似合わせることができます。どのスタイルでも選べますよ。それか、今日は毛先を整えて、ヘッドスパやトリートメントをする、という選択肢もあります」
「美容師さんて、みんなこんなふうに似顔絵が描けるんですか?」
「頭に浮かんだイメージを表現することが仕事なので、絵が得意な美容師はたくさんいますよ」
 いや、こんな即興で似顔絵まで描ける美容師さんは、さすがにあんまりいないと思う。

「本当にどの髪型でも選べるんですか?」
「はい、もちろん」
 私がなりたい、表現したい自分て、何だろう。
 愛されたいから。
 褒められたいから。
 私はそんな気持ちで髪を伸ばしていた。それは、本当に私がなりたい自分だったのだろうか。三千夫はそんなふうに、欲しがるばかりで、自分のことだけしか考えていなかった私といるのが、少しずつ苦しくなっていたのかもしれない。

「繁美さんは、ユニークですよね」
「え?」
「最初、すごい勢いで『バッサリいっちゃって欲しい』って言ってきたので、僕もうっかり『はい』って、そのまま切っちゃいそうになりました」
 そうだ。勢いだ。後先考えないで行動しちゃうやつ。
 それが、私のダメなところだったりするけど、いいところでもあるんじゃないか。

 いつまでも悩んで縮こまっているのは、つまらない。

 今日、私は独身になりたてのほやほやだ。次にどこに住むか決めるまで、頑張って働いてローンだって返さなきゃならない。
 それなのに、危うく、鏡を見る度に泣くような毎日にしてしまうところだった。
 よかった、ここに来て。気づかせてもらえて。
 髪を切ってもらうならこの人しかいない。
「お願いします。やっぱり、気持ちを変えたいです。あと、せっかくならきれいになりたい」
 私がそう言うと、美容師さんは嬉しそうに頷いた。

 「ありがとうございました」
 帰るとき、美容師さんは一緒に美容室の外まで出てきてくれた。
「ありがとうございました」
 見送られて歩き出すと、また冷たい風が肌を刺した。空も、さっきと変わらず雲ひとつなく、どこまでも青い。
 首筋が寒いけれど、ショートボブにしてもらった髪がはずんで、足取りも軽くなる。
 切ってもらってよかった。髪はまたあの人にやってもらおう。

 三千夫も今頃、新しいパートナーとこの空の下を歩いているだろうか。それとも、外出はせずに、仲良くずっと家にいるのかもしれない。
 これからしばらくは、彼がいない寂しさで、きっと何度も泣くことがあるだろう。ふとしたことで、落ち込む時もあるだろう。
 それでも私は、ご飯を食べたら美味しいって思うだろうし、テレビのお笑いを見て笑ったりもするだろう。
 髪も、伸ばしたくなったらきっとまた伸ばすと思う。

 今日は、これから久しぶりに部屋の片付けでもしようか。
 暖かくなったら、旅行にも行けるかな。
 マスクをしなくても、外を歩ける日がいつ来てもいいように、今からいろいろ準備をしておこう。


コロナウイルス感染症の影響がまだ続いていた時に書いた小説です。
ある懸賞に応募しましたが、見事に落ちてしまいました。
日々、悩んだり、落ち込んだりすることもある中で、美容室での出逢いをきっかけに、少しでも元気になったり、気持ちが変化したりする話を、これからも書いていこうと思います。

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