庶民にとって「景気がいい」は二度とこない🍖 AIと孤独じゃないグルメ🍺気分はもう発展途上国
南森町の「やっぱりステーキ」。
曽根崎通り沿い。地下鉄の南森町駅からだと、少し歩く。ほんの数分だが、この「少し歩く」が、妙に店の印象を決めることがある。駅前の一等地にある高級店ではなく、わざわざ肉を食いに行く店。そういう感じだ。
店に入ると、ステーキチェーンらしい機能美がある。派手ではないが、回転率と満足度のバランスがよく考えられている。ごはん、スープ、サラダはセルフで食べ放題。価格を抑えながら「ちゃんと満腹になる」という、庶民の正義に寄り添った設計だ。
私は、やっぱりステーキのミスジ300グラムとオリオンビールを頼む。


しばらくして、肉が溶岩プレートに乗ってやってくる。鉄板より冷めにくい。最後まで熱い。焼き加減を自分で調整しながら食える。チェーン店だが、ただ安いだけではない。食べる側に「肉をちゃんと食った」という感覚を渡す工夫がある。
一口目で思う。
ああ、肉食ってるな、と思う。
そして、肉を食っているという感覚は、けっこう生きている実感に近い。
「こういうのやねん」
私はビールを飲みながら、AIに言う。
🧠 AI「何がですか」
「景気の実感や」
AIが少し間を置く。
🧠 AI「株価は6万円を超えていますが」
「そこや」
今、日本の株価はバブル期を超えた。数字だけ見れば、景気はすごく良さそうに見える。新聞やテレビは“史上最高値”“新時代”“日本株復活”みたいな言葉を並べる。だが、町を歩いていて、バブルのような熱気を感じるかと言えば、まったく感じない。
なぜか。
その答えは、案外単純だ。
庶民が「景気がいいな」と感じるのは、株価ではないからだ。
店が混んでいる。
カップルが楽しそうにしている。
少し高い服や、少し高い外食が売れている。
みんなが、ほんの少しだけ背伸びした消費をしている。
そういう状態を、人は景気がいいと感じる。
つまり、景気の実感とは、内需の熱量のことだ。
高層ビルが建っても、高級ショッピングモールができても、一部の人だけが豊かで、多くの人がそこに参加していなければ、庶民は景気がいいとは感じない。ドバイみたいな風景は、たしかに金はあるのだろうが、体感としての景気とは少し違う。景気は数字ではなく、街の空気で判断されるものだからだ。
🧠 AI「景気の実感は、分配された消費の広がりに依存する、と」
「せやな。しかも、その内需を回す主役は誰か、や」
私は肉をひっくり返す。
ミスジは柔らかい。安いのに、ちゃんと肉質がいい。こういう店が成立するのは偉い。高級店ではないが、“価格以上”の満足を出す技術がある。
「内需ってな、若い人が作るんよ」
🧠 AI「なぜですか」
「若いからや」
あまりに当たり前の答えだが、そこに本質がある。
若い人は、まだ持っていない。家も、家具も、服も、クルマも、子どものためのあれこれも、何もかもがこれから要る。だから、未来を先払いして使う。借金もするし、分割も使うし、ちょっと無理してでも消費する。
消費は、希望から生まれる。
そして若者は、希望のかたまりだ。
バブルがバブルたりえたのは、株価が高かったからではない。若者がたくさんいたからだ。働き始める人、結婚する人、家を買う人、子どもを育てる人が分厚く存在していた。だから、内需が膨らんだ。株価はその結果であって、原因ではない。
ここを逆に理解すると、今の違和感も説明できる。
いまは少子高齢化と人口減少が進み、未来を前借りして使う若い世代が減っている。だから、株価がどれだけ上がっても、内需は活発化しない。高齢化社会は、使う経済ではなく、守る経済になるからだ。
若者は未来を使う。
高齢者は過去を守る。
これは善悪の話ではない。構造の話だ。
バブルやバブル崩壊、あるいはリーマンショックのような景気後退は、たしかに傷だった。だが、それは循環の中の傷だ。景気は、時間が経てば戻る。実際、リーマンショックのような危機も、世界全体としては回復した。
だが、人口は循環しない。
ここが決定的に違う。
景気は循環するが、人口は循環しない。
株価がいくら上がっても、庶民が「景気がいいな」と感じる状況は、人口が減り始めた時点で、構造的に起こりにくくなっている。不可能ではない。だが、自然には起きない。相当な再分配か、相当な外部要因がない限り、街の熱気は戻らない。
「ほんでな」
私はオリオンビールを飲む。
沖縄発のチェーンが南森町で肉を焼いている。その無国籍な感じも、いまの日本っぽい。全国チェーンになっても、値段は抑えられている。企業努力だろう。だが、こういう“がんばって安くしている良い店”が増えても、それだけで景気の実感にはならない。個別の優秀さと、社会全体の熱量は別だからだ。
「本当の致命傷は、バブル崩壊そのものやないんよ」
🧠 AI「その処理ですか」
「せや」
バブルの処理の過程で、就職氷河期世代、とくに団塊ジュニアに対する適切な再分配を失敗した。そこが致命傷になった。もしあの世代に十分な賃金と安定した雇用があり、ちゃんと結婚し、子どもを持てていたら、第三次ベビーブームができていた可能性は高い。
その場合、どうなっていたか。
いま株価が6万円を超え、さらに働き盛りの30代の人口の塊があり、しかも上の世代はバブル崩壊を経験している。つまり、熱狂だけではなく、過熱を抑える知恵もある。資産の熱、人口の厚み、過去の反省。その三つが揃っていたかもしれない。
それは、ただのバブルではない。
壊れにくい成長だった可能性がある。
だが、現実にはそうならなかった。
失われたのは30年ではなく、世代だった。
私はそう思っている。
🧠 AI「つまり、日本は景気でつまずいたのではなく、人口でつまずいた」
「そういうことやな」
肉がまだ熱い。最後まで熱いのは、この店のよさだ。食べる側のテンションが落ちる前に、皿が冷めない。料理には、熱量の持続が大事だ。
経済も、本当はそうだ。
一瞬の株価ではなく、熱量が持続する構造が大事なのだ。
ちなみに、体感先進国というものがあると私は思う。
みんなそこそこ豊か。
中間層が厚い。
少し無駄遣いができる。
街に余裕がある。
そういう状態だ。
日本は、データ上はまだ先進国だ。インフラも整っているし、企業も強いし、株価も高い。だが、庶民の体感としては、もう先進国を実感しにくくなっている。
一部が豊かで、大多数が停滞している社会は、体感としては先進国ではない。
むしろ、少し豊かな発展途上国に近い。
高級なものはある。
だが、自分の皿には乗ってこない。
その感覚だ。
やっぱりステーキのミスジ300グラムを食べながら、私はむしろ逆に、日本のいまを思う。こういう店で「肉食ってる、生きてる」と感じること自体、どこか防衛的な幸福なのかもしれない。本当に景気がいい時代は、こういう“コスパの良い幸せ”だけでなく、もう少し雑で、もう少し無駄で、もう少し浮かれた消費が、街に溢れていたはずだからだ。
AIやロボットで生産性を上げればまだ希望はある、という人もいる。
AIやロボットで生産性を上げること自体は正しい。
だが、その生産物を消費する内需がなければ、
経済は外需に依存するしかない。
そして外需依存は、
一部が豊かで、多数が取り残される構造を生む。
それは、
庶民が景気を実感する経済ではない。
つまり、
生産性を上げても、
“体感としての景気”は戻らない。
ダンテ『神曲』の地獄の門に書かれた「Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate」状態なんよ。少なくとも庶民はね。
🧠 AI「では、株価6万円は何なのですか」
「株主の景気やろな」
私はそう答えて、最後の肉を口に入れた。
うまい。
ちゃんとうまい。
だが、それでもなお、これを“バブルの味”とは呼べない。
バブルを超えたのは株価であって、生活ではない。
ごちそうさま。
※フィクションです。
