沖縄離島で、“今を生きる”という難しさについて考える
深く息を吸い込む。草木の匂いと潮の香り、そして湿気が、むわっと鼻を抜けていく。数日前、帰省したばかりの故郷の空気を思い出す。ツーンと刺すような冷気と、ほとんど無臭に近い街の匂い。あの空気を、しばらく味わうことはできない。
島にも冬は来る。ただし、それは一月か二月。しかも、強い寒波が南下してきた年の、ほんの数日だけ。――故郷で感じた、あの「冬に近い秋」の空気をこの島で嗅ぐことは、ほとんどないのだろう。
帰省するたび、同じ問いか浮かんでくる。
いつまで島で暮らすのだろうか。
次に故郷へ帰るのは、いつになるのだろうか。
そして、両親や旧友にあと何度会えるのだろうか。
人だけが、時間を認識し、死の存在を意識しながら生きる生物だと聞いた。その通り、自分の内側にある思考は、いつも「死」を起点に、残りの時間を無意識に逆算しているように思う。
目の前で、一羽のシロサギが魚を捕まえた。
彼らはきっと「明日もここで獲物を捕ろう」などとは考えない。
十一月だというのに、相変わらずセミが鳴いている。彼らもまた、自分たちが「セミらしくない時期」に鳴いていることなど知らない。
生物は、ただ今を生きている。
過去も未来もなく、この瞬間だけを生きているのだ。本来は、そう生きることこそが幸せなのだろうか。しかし同時に、そんな生き方はどこか残酷にも思える。そもそも彼らには「幸せ」自体がなく、ただ与えられた時間を、何も知らないまま過ごしているのだから・・・
「今、この瞬間を生きなさい!」
そう強く書かれた本を読んだことがある。概念としては理解できる。けれど実際には、僕の思いはそちらには向かわなかった。
気づけば、自分は勝手に “80歳過ぎまで健康的に生きる” ことを前提にして、人生をいくつかの区切りに分けながら、時間の有限を常に感じながら生きているのだ。
この文章は、いま思ったこと、感じたこと、見たことをそのまま記したものだ。これが 、もしかしたら「今を生きる」 という行為に近いのだろうか。
ただ、こうして文章を読み返しても、何を伝えたかったのか分からなくなる。それでも、この曖昧さこそが正直な思いなのだろう。きっと人には今を生きることと、有限を感じながら生きることを、同時に捉える力があるのだ。
結局、自分でも何を言いたかったのかはよく分からない。「そんなことを思った」というだけの文章だ。
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