ファンじゃないはずなのに、正座していた
アラームも鳴っていないのに、午前三時にカチッと目が覚めた。
スマホの小さな画面の向こうでは、緑のピッチを男たちが走り回っている。ワールドカップ日本対ブラジルの一戦だ。
僕は熱狂的なサッカーファンというわけではない。小学生の頃に習っていたくらいで、最近の代表選手の名前なんて片手で数えるほどしか知らない。それなのに、アラームもかけていないのに、身体は勝手にこの時間を選んで起きた。世界的な祭典の魔力か、単に僕のバイオリズムが本格的な老化フェーズに入っただけか。そこは深く考えないことにした。
考えないことにしたはずなのに、気づけば布団の上で正座していた。
観戦したのは後半からだった。
展開は、まさに天国から地獄だった。日本が1-0でリードしていたはずなのに、安心感はない。ブラジルはまるで怒れる猛獣だった。一方的な猛攻。45分間のはずなのに、時間の密度が違う。あっという間に、逆転されていた。
その瞬間、思わず声が出た。静かな部屋の中で、片手で頭を抱えていた。ファンというわけではない人間が、こんな動きをするだろうか。
あの時、自陣の深いところでボールを奪われてしまった選手の名前は、もう思い出せない。僕のサッカー好きなんて、所詮その程度だ。
たが、名前も覚えていないくせに、その選手がピッチにしゃがみこんだ姿だけは、はっきりと目に残っている。
画面が消えた後も、頭の片隅にはあの逆転ゴールの残像が薄くこびりついていた。重たい眠気を引きずったまま、昼過ぎに海へと向かった。サッカーのことなんて、もう忘れるつもりだった。
竿を出す。なぜか、釣れるのはマトフエフキばかりだった。
この魚の身体には、その名の通り「的」のような黒い斑点がある。
釣り上げたマトフエフキの顔を眺めながら、僕はぼんやりと考えた。あの黒い斑点には、いったいどんな意味があるんだろう。敵を威嚇するためか、ただのオシャレか。
じっと見つめているうちに、その斑点がだんだんサッカーボールに見えてきた。あるいは、ゴールネットの隅に突き刺さるあの球体の軌道。
忘れるつもりだったのに、結局僕は海の上でもまだサッカーを引きずっていたのだ。名前も忘れたあの選手が奪われたボールが、いま、僕の手元でピチピチと跳ねているような気がしてくる。
ここまで来て、さすがに認めざるを得なくなった。「ファンというわけではない」という自己申告のほうが怪しい。魚の斑点にまでボールを見出す人間を、はたして「興味がない側」に分類していいのだろうか。
不思議なもので、魚が釣れ続けるうちに、体の奥からじわじわとアドレナリンが湧いてくるのがわかった。
梅雨明けの空からギラギラとした強烈な日光が降り注ぐ。その光を浴びた瞬間、身体の奥からパワーが漲ってきた。
さっきまでの猛烈な眠気はどこへ行ったのか。
ブラジルの猛攻に晒されていた僕の自律神経は、いまやすっかり持ち直している。寝不足から完全に回復した証拠だ。
僕は、名前を忘れたあの選手に心の中で感謝した。彼がボールを奪われたことと、僕がマトフエフキに出会えたことの間に、論理的な繋がりは特にない。それでも、感謝したい気分だった。
それに、こんなに一日中サッカーのことを考え続けるなんて、興味のない人間にできることではない。案外、僕はサッカーを愛しているのかもしれない。少なくとも、代表選手の名前より、失点の痛みを長く覚えているタイプの愛し方で。
いま、手元に残ったのは、心地よい疲労感と、すっかり乾いた潮の匂いだけだ。
太陽の光とアドレナリンでギラギラしているけれど、家に帰ってシャワーでも浴びたら、今日は泥のように爆睡するのだろう。
午前三時に強制終了させられた僕の睡眠が、今夜ようやく、本当のゴールを迎える気がした。
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