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この島では、散歩が哲学になる

梅雨の雨は、降っているのか、やんでいるのか分からない時がある。

屋根を叩いていた雨音が、いつの間にか消えている。けれど外へ出ると、空気にはまだ細かな水気が漂っていて、肌にまとわりつく。その曖昧さが梅雨らしいともいえる。

本を一冊読み終えたあと、ふらりと散歩に出た。

晴れ間のない日は、南の島でもまだ少し肌寒い。雨上がりを待っていたように、鳥たちが一斉に鳴き始めた。遠くでアカショウビンの声も聞こえた。


庭先にはマンゴーが実っている。

島では珍しくもない光景なのに、僕はいまだに立ち止まってしまう。空き地にも、民家の庭にも、当たり前のように果実がぶら下がっている。

「あれって、食べられるんだろうか」

毎年、同じことを考える。鳥につつかれた跡がないから、まだ熟してはいないのだろう。

すぐ近くでは、パパイヤが無造作に実をつけている。こちらの多くは甘く熟す前、青いうちに野菜として炒め物になる種類だ。季節などお構いなしに、年中、平然と実っている。

こういう景色に慣れてしまった自分がいる。けれど同時に、「果物がその辺に生えている」という非日常に、まだ少し驚いている自分もいる。

たぶん、移住者だからだろう。

歩きながら、そういう"慣れきれない感覚"を拾っていく。

以前まで放し飼いだった軍鶏が、最近はケージに入れられていた。穴だらけだったアスファルトは綺麗に修繕されている。電線に止まるツバメを見上げて、「そういえば、こっちのツバメは本州より小さい気がする」と、今さらみたいに思う。

散歩というより、変化の確認に近い。

そして僕は、決まって用水路を覗き込む。

水が溜まる場所には、生き物がいることが多い。亀、おたまじゃくし、小魚、蛙。
今日は、垂れ下がった葉っぱの上に、泡の塊を見つけた。

蛙の卵だった。

水面の真上に垂れ下がった葉に産みつけられていて、孵化したら、そのまま重力に従って下の水へ落ちる仕組みらしい。

なんて合理的なんだろうと思った。

誰かに教わったわけでもない。一匹の蛙が賢かったわけでもない。気の遠くなる時間の中で、生き残った行動だけが遺伝子に刻まれ、今も続いている。

小さな水溜まりを前にして、僕は妙に感動していた。

生命は、ときどき静かに圧倒してくる。

少し先では、放牧された牛が低く唸っていた。最初は怒っているのかと思ったが、歩きながら「あれは産気づいていたのかもしれない」と考え直した。

その牛舎には、猫たちが住み着いている。今日も、よちよち歩きの子猫がいた。また新しい世代が生まれたらしい。

この場所を散歩するたび、猫たちとは何年も顔を合わせてきた。大きくなった猫がいて、いつの間にか姿を消し、また別の子猫が現れる。その繰り返しだ。

ただ、ここの猫たちは必ず逃げる。

今日の子猫も、ふらつきながら車の下へ隠れ、不安そうな目でこちらを見ていた。まだまともに歩けもしない体で、懸命に距離を取ろうとしていた。

人を警戒することが、この家系には受け継がれているように見える。

それは蛙のように遺伝子によるものなのか。それとも、親猫から子猫へ伝えられる"生活の知恵"なのか。

そんなことを考えながら、また歩き出す。

この島での散歩は、景色を見る時間というより、自然に思考をほどかれていく時間に近い。

目に入ったものから考えが枝分かれし、自分の知識や記憶や暮らしと混ざり合って、また別の問いになる。ただ歩いているだけなのに、頭の中ではずっと、自問自答が続いている。

家に帰り着いて、さっきまで何を考えていたか振り返ろうとした。蛙と、猫と、遺伝子と、生命と。まとめようとしたら、するりと逃げていった。

でも何かは残っている。それで十分な気がした。

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ゆとりのある男 読んで頂きありがとうございます!!