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沖縄離島にいながら、海を今日は見ていない

今日、海は見ていない。
天気は未だに真夏のようだった。
そんな日だったのに…

昼過ぎにふと、釣りに行こうかと思った。しかし、外を見ると家のちょうど真上だけに真っ黒な雲が覆っている。しかも、遠くで雷鳴まで聞こえる。結局、外に出ることは諦めた。

すると猛烈に感情が湧いてくる。釣りに行きたいという衝動だ。それが今日は叶わない、だからといって何もしたくないわけではい。持て余した時間を埋めるように、本を読んだり、ポッドキャストを聞いたり、プログラミングを勉強しようとする。この、どこからともなく湧いてくる「何かをしよう」とする意志は、一体何なのだろうか?

この問いを抱えながら、ある書籍に記された一説を思い出す。哲学者のパスカルが語った「気晴らし」の概念だ。彼は「ウサギ狩り」の例でこの哲学を説明した。「人間が狩りに行くのは、獲物が欲しいからではなく、退屈から逃れたいからである」と。彼らが本当に求めているのは、獲物そのものではなく、獲物を追いかけるという「行為」だ。

このパスカルの言葉を借りれば、今日の心境はまさに「気晴らし」を求めていたと言える。紛れもなく僕が求めたのは「魚」ではなく、「釣り」という行為そのものだった。このパスカルの概念は、全世界のすべての釣り人の心に響くであろう。釣りは単に「何もしたくない」という空虚な時間を埋めるための行動だった。そして、釣りができなくなった後、プログラミング学習や読書に心が向いたことも、形を変えた別の「気晴らし」に過ぎなかったのだ。

そして、noteを書くという行為もまた、気晴らしであり、空虚な時間を埋めるための手段なのだろうと思った。何もしない時間は嫌いではない。しかし、何もせず長時間ぼーっとしていると、ふとした不安やネガティブな感情に襲われることがある。また、些細な出来事を、必要以上に悪く考える思考モードに入ることもある。この「不幸な時間」を引き起こすかもしれない「無の時間」から逃れるために、僕たちは何かをしようとし、何かを書こうとするのだろうか?

結局のところ、今日行ったあらゆる行為もパスカルの言う「気晴らし」だったのかもしれない。無から生まれる負の感情と向き合う代わりに、何かをするという行為に没頭することで、自分自身を保とうとしていたのだろうか?
離島にいながら、海を見なかった1日だったけれども、意外と充実し、良い1日だと思えたのは、きっと「気晴らし」を次から次へと詰め込んだからに違いないし、気晴らしはパスカルが思うほど悪いものでもない。




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