「恋じゃない好き」があってもいい―「女性として見られない」呪いが解けるまで
「恋愛できない私は、どこか欠けている。」
昔の私は、本気でそう思っていた。
「恋愛すること」
「男性に女性として見られること」
それができて初めて、人として一人前だと思ってたから。
でも今振り返ると、私はただ、世間の “恋愛”という枠に、自分を無理やり押し込めていたのかもしれない。
「コイスルオトメ」に憧れていた高校時代
スーパーで、いきものがかりの「コイスルオトメ」のインストゥルメンタルが流れてきた。
私がこの曲を初めて聴いたのは高校生のとき。
女子校に通っていた当時の私にとって、「恋」は憧れの対象だった。
ピュアな恋心を歌い上げる曲を聴いて、
「恋をするとこんな気持ちになるのか、すごいなあ」と、純粋に胸を膨らませていたっけ。
そして、この曲を聴くと、思い出す人がいる。
自由な先輩への、名前のつかない気持ち
大学に入り、音楽サークルで活動する中、懇意になった先輩がいた。
彼とは、世の中のこと、自分たちの心の動き、読書や音楽について、何時間でも語り合えた。
直感的で自由で、今思えば、北海道の青い空と風みたいな雰囲気の人だった。
実際に、ママチャリで北海道を縦走したり、ギターとピアノを心のままに弾いていたり。
「俺、誰もいない海を見つけるのが得意なんだ」と、目の横をしわしわにした笑顔で語っていた姿が忘れられない。
「こうあるべき」に縛られて生きてきた私には、その自由さが眩しかった。
彼といると、「べき」にがんじがらめの自分が、癒やされていく感覚があった。
これは恋なのかな?
でも、「コイスルオトメ」のような甘い感情はない。
彼を独占したい、って感じもない。
でも、ずっと話していたかった。
恋人になりたいというより、
「彼が彼として世界に居てくれること」が嬉しくて。
人として、深くつながっている感覚が心地よかった。
自分の気持ちがよくわからないまま、日々は過ぎた。
「女性として見られない」―呪いの言葉
結局、私が大学4年生、彼が大学院1年生のときに付き合ってみることになった。
お互いの好意は確認した。
相変わらず、コイスルオトメ的感覚はなかった。
けれど、彼ともっと語り合える、体験を共有できると思うと、とても嬉しかったのを覚えている。
そのうち、恋愛感情も芽生えてくるだろう、と楽観的に考えていた。
しかし、51時間後、彼から突然の電話。
「やっぱり女性としては見られない」と告げられ、終わった。
今思えば、彼の伝え方も直感的すぎだし、私も、もっと自分の気持ちと向き合って、伝えるべきだったと思う。
「好き」の感覚は人によって違うし、付き合って何をしたいかも、人によって違うから。
でも、当時はその発想がなかった。
13年前のキャンパスには、どこか恋愛至上主義的な雰囲気があり、私もその空気に飲まれていた。
リア充万歳。
彼女、彼氏がいて、一人前。
そのため、「女性として見られない自分が悪い。恋愛という枠に入れない自分はダメ。」という発想に陥った。
サークル内に彼の元彼女がいたが、彼女はしっかりとして包容力のある人だった。
そのため、「女性として愛される人」と 「そうじゃない自分」 を比べて落ち込んだ。
以降、「女性として見られない」という言葉は、呪いのように残り、「自分を女性として見てくれる人=私に価値を与えてくれる人」という歪んだ結びつきができた。
今の夫に対しても、「私で良いと言ってくれる人」という気持ちが強く、問題があっても結局離れられず、結婚へ進んだ面がある。
「恋じゃない好き」があっていい―アロマンティック/アセクシャルとの出会い
今年に入ってから、彼への怒りがぶり返して、空間にパンチを繰り返してしまった。
でも。
「彼のことが本当に好きだった!だから、殴らないで!」
彼を殴り続けていると、ふと、もう一人の自分の声が聞こえたのだ。
その瞬間、気づいた。
甘い恋心はなかったけれど、尊敬と憧れと安らぎが混ざった感覚。
これが私の「好き」だったんだ、と。
この感覚を言語化することも、本人に伝えることもせずにいたから、私はずっと傷ついたままだったのだ、と。
「恋じゃない好き」なんてあるのかな?
人として好き。
憧れ、尊敬し、楽しくて、癒やされる。
—でも「恋」ではない。
答えを探す中で、私は「アロマンティック」「アセクシャル」という言葉を知った。
恋愛指向や性的指向のあり方には、グラデーションがあること。
「恋愛できる/できない」で単純に分けられるものではないこと。
その考え方に触れたとき、
私は少し救われた。
「先輩を好きだった気持ちは、なかったことにしなくていい」と気づけたから。
そして、性別の在り方にも揺らぎがあること。
私は、「女性らしさ」を求められるのが苦手であること。
女性、男性という枠組み抜きに、人間として、心からつながりたいと思っていること。
もし、当時この概念を知っていたら。
元彼女と自分を比べることもなく、恋愛の枠に入れない自分を責めることもなく、私自身の気持ちを大切にできたかもしれない。
彼に届かなかった想い。
自分の気持ちを大切にできなかったこと。
今も、悲しいし、ときどき痛い。
消さないで、生きてゆく
一方で、「コイスルオトメ的感覚」への憧れを抱いていたのも事実だ。
恋愛して、結婚して、子どもを産むことへの憧れ。
それは確かに私の中にあって、理想に向かって何とか生きてきたから、今の自分がいる。
私は、もしかしたら「憧れる力」がとても強いのかもしれない。
それは、夢を叶える大きな推進力になる一方で、本当の気持ちを見つめることを妨げていたとも思う。
スーパーでベビーカーを押しながら、「コイスルオトメ」を聴く。
私は先輩のいない道を歩いている。
でも、彼を好きだった気持ちは、消さなくていい。
恋に憧れていた気持ちも、消さなくていい。
気持ちはうまく伝えられなかったけど、彼との時間は、確かに美しかった。
コイスルオトメに憧れていたから、私は今、この子のベビーカーを押している。
痛みに蓋をして、やり過ごした時期も長かったけれど、ようやくその痛みを、あの日々への愛おしさに変換できつつある。
そして、自分の気持ちや感覚を大切にしていい、という当たり前に気づくことができた。
まだ時々痛むし、悲しくなるときもあるけれど。
その痛みも味わって、私だけの道を歩いていきたい。
