ごきげんよう。
愛と性の伝道師、御開帳ぽんちょです。
「多目的トイレ」がいつの間にか「バリアフリートイレ」と呼ばれるようになったのは、いつのことだったか。
2021年3月、国土交通省がバリアフリー設計指針を改定し、正式に名称が統一された。本来その設備を必要とする車椅子利用者やオストメイトの方々が、一般利用者に占拠されて使えないという問題が以前から指摘されていたことが背景にある。もちろん、それだけが理由ではない。2020年6月に報じられた、アンジャッシュ・渡部建氏の六本木ヒルズ地下駐車場における「多目的トイレ不倫」が、この改称を強力に後押ししたという見方は根強い。国土交通省は公式にはその因果関係を認めていないが、名称変更が報じられた際にSNS上では「渡部が国を動かした」という反応が噴出し、「多目的トイレ」がTwitterのトレンドに入るほどの騒ぎとなった。実際、名称変更の検討が始まったのは渡部氏の騒動が報じられた半年後の2020年12月であり、時系列的に見ても「まったく無関係」と言い切るのはなかなか苦しい。
いずれにせよ、あの騒動以来、「多目的」という言葉にどことなく淫靡な響きを感じてしまうのは私だけではないだろう。いや、誤解しないでほしい。これは極めてマジメな話ではなく、あくまでジョーク的な――いや、半分ジョーク的な側面での話である。
飲み会の席で「多目的」と誰かが口にすると、一瞬、全員の目が泳ぐ。あの微妙な空気。あの共犯者的な沈黙。「多目的ホール」と聞いて一瞬別のことを想像してしまう自分がいる。渡部氏は日本語の一単語に、消えることのない色気を付与した。ある意味で、言語史に名を刻んだ男である。
私は渡部氏のことは全く嫌いではない。むしろ好きだ。
世が羨む全ての美を凝縮された妻を手に入れながらもなお、高みを目指した男だ。ポリアモリーたる私の尊敬の対象に入らないわけがない。すごい。
横道にそれたね。
さて、ここからが本題だ。
多目的なトイレで多目的なことをしてしまったのなら、それこそ私は渡部氏を全く批判できない。なぜなら私もまた、様々な場所で多目的なことをしてきたからである。
リゾートホテルのベランダ。潮風が頬を撫でるなか、眼下にはプールサイドで寝転がる観光客たち。見上げれば満天の星。ロマンチックと言えば聞こえはいいが、要するにベランダで多目的なことをしたのだ。隣の部屋の住人がバルコニーに出てこないことを祈りながら。
オフィスビルの非常階段。残業帰り、人気のない薄暗いコンクリートの空間。エコーがやたらと響く。非常口の蛍光灯だけがぼんやりと緑色に光っていた。あれは非常事態ではなかったが、非常階段にはふさわしい使い方だったかもしれない。
学校の部室。放課後、誰もいなくなった部室棟。使い古されたパイプ椅子と、壁に貼られた大会のポスター。青春の一ページと言えば美しいが、実態はただの多目的である。
しかし、私の多目的キャリアの中で最も鮮烈に記憶に刻まれているのは、彼女の学生寮での一件だ。男性立ち入り禁止。その寮の周囲をぐるりと囲む、丁寧に手入れされた生垣。その生垣の陰で、私たちは多目的なことをした。
あれは、一番興奮したかもしれない。
なぜか。答えは明白である。男性立ち入り禁止という絶対的な禁忌。寮母に見つかれば彼女の退寮は免れない。生垣の隙間から漏れる寮の灯り。いつ誰が窓から顔を出すかわからない緊張感。すべての条件が、あの体験を特別なものにしていた。
ここで少し、知的な話をさせてほしい。
心理学に「心理的リアクタンス」という概念がある。アメリカの心理学者ジャック・ブレームが提唱した理論で、人間は自分の行動を自由に選択したいという根源的な欲求を持っており、その自由が外部から脅かされると、失われた自由を回復しようとする強い反発が生じるというものだ。日本では「カリギュラ効果」という通称でも知られている。1980年公開のアメリカ映画『カリギュラ』が過激な内容ゆえにボストンで上映禁止となった結果、市民がこぞって近隣の街まで観に行き大ヒットしたというエピソードに由来する。
「やるな」と言われると、やりたくなる。「開けるな」と言われると、開けたくなる。浦島太郎は玉手箱を開け、パンドラは箱を開け、鶴の恩返しのおばあさんは襖を開けた。古今東西、人間の本質は変わらない。
この理論に照らせば、「やってはいけない場所でやってはいけないこと」に興奮を覚えるのは、まさに心理的リアクタンスの発動そのものだ。禁止されることで対象の主観的価値が跳ね上がり、その禁を犯すことで「自己決定権」を証明しようとする衝動が働く。さらに、禁止は対象の希少性を高める。社会心理学では、入手困難なものほど価値が高いと判断する傾向が指摘されている。つまり「ここでは絶対にやってはいけない」という状況こそが、その行為に途方もない付加価値を与えてしまうのだ。
私たちがベッドの上ではなく、リゾートホテルのベランダで、非常階段で、学生寮の生垣の陰で多目的なことをしたくなるのは、怠惰でも変態でもなく――いや、多少は変態かもしれないが――人間の心理構造に深く根ざした、ある種の必然なのである。
多目的トイレは、その「多目的」という名前ゆえに、本来の目的を逸脱した使い方を誘発してしまった。「多目的に利用できる」という寛容さが、「多目的の範疇」を超える行為への心理的ハードルを下げてしまったとも言える。これは皮肉であると同時に、人間心理の正直な発露でもある。
バリアフリートイレという名前になって、もうあの設備で多目的なことをする人は減っただろうか。たぶん、減ったのだろう。名前の力は偉大だ。「多目的」には余白があった。「バリアフリー」には余白がない。その余白の消失が、不届き者たちの想像力を封じたのだとすれば、改称は正しい判断だったと言わざるを得ない。
でも、と思う。
「やってはいけない場所でやってはいけないこと」の背徳感。あの、全身の毛穴が開くような、脳の奥がチリチリと痺れるような感覚。あれを知っている人間と、知らない人間では、人生の味わいが少しだけ違う。私はそう思っている。
やってきたからこそ、わかる。
あれは、いいものだ。
くれぐれも、人の迷惑にならないようにね。
