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許さないと…❓決めること…❓😤

許すにしても、許さないにしても、結論が先にある。
それから他のことが決まっていく。
だから実は誰しも許すか許さないかをはじめに決断している。

例えば虐待は犯罪だ。
社会的に許されない。
決して許してはいけない。
そんなことは前提だ。
結論ではない。
前提を間違うとそれ以降はすべて間違う。
加害者をかばい、許せと言うのは加害者だ。
自身の八つ当たりや加害に覚えがあってそれらを許してもらいたい人間は、加害者を許せと言い、加害者を擁護するようになる。
本当に被害者であれば、加害者をかばうことはできない。
後からどんな理屈を並べられてもも、許せない、許されないという結論が先にある。
それが人間だ。
自分は八つ当たりで加害しているけど…
そのことが発覚せず、咎められもせず、いつも許されていたい…
そうでないとまずい…
今の事実がバレたら都合が悪いことになる…
社会的にまずいことになる…
家族や身内に知られたら困る…
軽蔑される…
嫌われる…
見下される…
絶縁されるかもしれない…
でもやめられない…
仕方がないから隠し通そう‼️
などと決断していると、加害者擁護に走りかねない。

加害者は加害者をかばう。
被害者は加害者をかばえない。
ストックホルム症候群などよほど特殊な状態でない限り、そんな異常な事態は起こらない。

毒親をかばうのは毒親だ。
虐待被害者は毒親をかばえない。
当たり前のことだ。
自然にそうなる。
親になってはじめて子を憎み、虐待する親の気持ちが分かった…
などと思うのは毒親だ。
親の無意識は子に伝わっている。
一方親の意識は伝わらない。
子がどんな大人になることか。
その頃になって実際の親子の関係がどうだったか分かるようになる。
周りからは仲が良さそうに見えていても、実際の対人関係はそう単純ではない。
そして事実はすぐには分からない。
年月が過ぎて後からようやく分かり始める。
何事も結果が出てくるのははるかに年月が経ってからだ。
くじのようにすぐに結果は分からない。
短気は損気。
焦る乞食はもらいが少ない。
結果を焦ると、得られるものすら得られない。
一度子を生めば、子育てや親子関係に終わりはないのが現実だ。
子を生むかどうかは、親が決めている。
生まれてくる子は、親を選んでいない。
子に生まれてくるかどうかの選択はできない。
気がついたらとっくに生まれている。
誰もが親にならねばならないわけではない。
自分は親になりたくない、なるべきではないと思うなら、ならなければ良い。
その決断は誰でもできる。
自己決定権は皆にある権利だ。