牛乳と乳飲料の違いを知らなかった夫の話
スーパーから帰った私を待っていた、まさかの一言
「牛乳買ってきたよ」
エコバッグから紙パックを取り出し、私は得意げに妻に差し出した。週末、頼まれていた買い物を一人で済ませてきた帰り道。仕事ではそれなりの結果を出してきたつもりの私だが、家事育児の世界では正直、まだ新人もいいところだ。それでも今日は完璧な仕事をしたつもりだった。リストにあった「牛乳」を、ちゃんと買ってきたのだから。
ところが妻は、紙パックを一目見るなり、表情を変えた。
「ねえ、これ牛乳じゃないよ」
私は固まった。
買い物リストには確かに「牛乳」と書いてあった。私は迷わずスーパーの乳製品コーナーに向かい、迷わず白いパックを手に取り、迷わずレジに並んだ。完璧な動きだったはずだ。どこで何を間違えたのか、まるで分からなかった。
「え、違うの?」
「いや、白いし、牛のマークもついてるし……牛乳でしょ?」
我ながらトンチンカンな反応だったと思う。妻は短くため息をついて、紙パックを私の鼻先に持ってきた。
「ここ、見て。『種類別』って書いてあるところ」
指差された場所に、小さく書いてある文字を読む。
「種類別……乳飲料」
「そう、これは牛乳じゃなくて乳飲料なの」
乳飲料。聞いたことはあるような、ないような言葉。何となく牛乳の仲間だろうとは思っていたけれど、別物として明確に区別されているなんて、30年近く生きてきて意識したこともなかった。
元保育士・妻のレクチャー
妻は元保育士だ。私が結婚するまで知らなかった世界の住人で、子供の食事や栄養の話になると、突然「先生モード」に切り替わる。家事育児レベルで言うと、私が5なら妻は80はある。今日もそうだった。
「いい? 紙パックの飲み物には必ず『種類別』っていう表示があるの。これは食品の決まりで書かなきゃいけないことになってるやつ。それを見れば、その飲み物が何なのかが一発で分かる」
妻はキッチンの椅子に私を座らせ、買ってきた紙パックを教材代わりにレクチャーを始めた。
「『牛乳』って書いてあるのは、生乳100パーセント。牛から搾ったお乳だけが原料で、水も添加物も混ぜちゃいけないって法律で決まってるの」
「ふんふん」
「でも、これは『乳飲料』。牛乳をベースに、他の原料……たとえばカルシウムを足したり、コーヒーや果汁を混ぜたり、いろいろ加えたものを乳飲料って呼ぶの」
「じゃあ、これも牛乳の仲間ではあるんだよね?」
「仲間ではあるけど、牛乳じゃない。うちの子は乳飲料だと飲みが悪いし。シチューに使ったら味が違うし、子供にそのまま飲ませる時も、ちゃんと栄養計算したいなら牛乳を選んだほうがいい場面はあるよ」
私が買ってきたパックは、確かによく見ると「カルシウム強化」と書かれていた。何となく「お得そう」「体によさそう」というイメージだけで、棚からつかんできてしまったのだ。カルシウムが強化されているなら、むしろ普通の牛乳より上等じゃないか、くらいに思っていた節すらある。
「牛乳って書いてあるってことは、原材料は生乳だけ。それ以外のものは入れられないのが決まり。でも乳飲料は、牛乳に色々プラスしてあるもの。だから栄養強化系の商品は、たいてい乳飲料のほうに分類されるの」
「なるほど……」
「強化されてるからいい、悪いって話じゃなくて、目的によって選ぶものが変わるってこと。料理に使うなら断然牛乳のほうがいいし、子供におやつの時間に何か飲ませるなら、その日に足りてない栄養を補える乳飲料が便利な日もある」
「保育園にいた頃も、子供たちに出すものは必ずパッケージの『種類別』を見てたよ。アレルギーのこともあるし、栄養指導の話もあるし。あれって、見る人が見れば情報の宝庫なんだから」
妻が遠い目をしながら言う。私はただ、頷くしかなかった。
「お買い得」の罠
冷静に振り返ると、私はこれまでスーパーで飲み物を選ぶとき、ほぼ値段しか見ていなかった。
「あ、これ安い」「同じ牛のマークだし、こっちでいいや」
そんな調子で、何となくお得そうなパックを手に取って、何となくカートに入れていた。今日買ってきた乳飲料も、隣にあった牛乳より数十円安かったから選んだのだ。
でも妻の話を聞いて気づいた。安いものには安い理由がある。乳飲料が牛乳より安い傾向にあるのは、生乳の比率が低かったり、他の原料が混ざっていたりするからだ。それが悪いという話ではない。乳飲料には乳飲料のよさがあるし、用途によっては全然それでいい。
問題は、私が「違いを知らずに選んでいた」ということだ。
子供にカルシウムをしっかり摂らせたい朝。料理で牛乳のコクを生かしたい夜。妻が「牛乳買っといて」と頼んでくる時、その言葉の裏には、私の何倍もの情報量がある。それを「白くて牛のマーク」だけで処理していた私は、たぶん家事育児レベル5どころか、3くらいだったのかもしれない。
「お買い得」だと思って手に取っていたものが、実は妻の意図とずれていた。それは小さな話のようで、毎日のことだから、地味に効いてくる。
考えてみれば、私は仕事の場面では、見積書の細かい数字や契約書の小さな文字を、神経質なくらい確認するタイプだ。なのに、毎日体に入れる飲み物のパッケージは、ほとんど見ていなかった。妻に頼まれた一個の買い物すら、ちゃんとできていなかった。スーパーは私にとって、思っていた以上にレベルの高い職場だったらしい。
次の買い物で
それから数日後、私はまたスーパーで紙パックの前に立っていた。
棚を眺めて、まず値段を見そうになる自分にブレーキをかける。代わりに、パッケージの下のほうに小さく書かれた「種類別」の文字を探す。牛乳、牛乳、低脂肪牛乳、加工乳、乳飲料。並んでいるパックを一つずつ確認しながら、今日の用途に合うものを選ぶ。
たったこれだけのことなのに、何だか自分が一段、大人になったような気がした。
家に帰って妻に紙パックを差し出すと、妻は「種類別」のところに視線をやって、ふっと笑った。
「ちゃんと牛乳だね。学習したじゃん」
「先生のおかげです」
「私は別に先生じゃないよ」
そう言いながらも妻は満更でもなさそうだった。家事育児という分野で、私が一つだけ妻に追いついた瞬間。たかが牛乳一本だけれど、その一本の重みは、私にしか分からない。
それだけのやり取りだったけど、私は内心ガッツポーズしていた。家事育児レベル5から、6に上がった気がする。たった1だけど、私にとっては大きな1だ。
知らなかったことを、恥ずかしがらなくていい
家事育児に悩んでいる夫の話を聞くと、みんな似たようなところでつまずいている気がする。何が正解かが分からない。妻に聞くのも気が引ける。でも自分なりにやってみたら、ズレている。それを指摘されるのが一番しんどい。「せっかく買ってきてあげたのに、だったら自分で買えばいいのに」なんて思うかもしれない。
でも、あの日の妻はちょっと厳しめだったけれど、私を責めたわけじゃなかった。「種類別の見方」を、ちゃんと教えてくれた。私はそれを覚えて、次から実践した。それだけのことだった。
家事育児は、一夜漬けでレベルが上がる世界じゃない。仕事みたいに半年で成果を出せ、というプレッシャーの世界でもない。代わりに、毎日の小さな気づきが、ゆっくり効いてくる世界だ。牛乳と乳飲料の違いを覚える。シャツの干し方を覚える。子供の機嫌が悪い時の見分け方を覚える。一つずつ。本当に一つずつ。
知らなかったことを恥ずかしがる必要はないと、私は最近思うようになった。知らなかったから、これから知ればいい。それだけだ。
今日、家に帰ったら冷蔵庫の牛乳パックの「種類別」を見てみてほしい。そこから、何かが少しだけ変わるかもしれない。私の家事育児レベルは、たぶんまだ6だ。でも、明日には7になっているかもしれない。そう思えるだけで、台所に立つのが少しだけ楽しくなる。
