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母の顔を見たとき

こんにちは、みちゃです。
今日は日曜礼拝でした。
心が整う時間だったはずなのに、どうしたわけか苛立っています。
自分では特に理由はないと思っているのですが、心当たりがないわけではありません。

今から1か月ほど前の、5月下旬のことでした。
私は、母親を自分が通う教会のイベントに招待しました。
以前の私だったら、自分の大切な場所である教会に、母親を招待することは絶対にありませんでした。
ところが、イベントがあると知った時、すぐに
「母を招待しよう!」
と思い立ったのです。

同じ頃、お世話になっている教会のメンバーの方から、
「この本を3回読んだたら、クリスチャンになった人がいるのよ」
と耳にして、その本を母にプレゼントするために手元に用意しました。
クリスチャンになって欲しいとは思っていません。
それよりも、クリスチャンであるということがどういうことか、私が今いる世界のことを知って欲しいと思ったのかもしれません。

当日は、いつもと同じように礼拝と聖書勉強会があり、その後にイベントが
開催されました。
持ち寄りの食事会に、教会のメンバーだけでなく、母のようにメンバーでもクリスチャンでない人でも参加できる、いわゆるアウトリーチのイベントです。
教会の近くまで来た母をパートナーとともに迎えに行き、用意してあった食事会用の料理を手に会場へ。
近しいメンバーの方たちには、母が来訪することを伝えてあったこともあり、温かく迎えてもらいました。
他に友人も招待していたため、私は、食事会の間中、その友人の相手をしており、母とはほとんど会話しませんでした。

母はというと、以前に教会の近くで偶然にメンバーの女性と会ったことがありました。
その女性にまた会いたいというのが、今回の母のイベント来訪の目的の一つでした。
そのことは、彼女にも伝えてあり、母の相手を終始、務めてくれました。

途中で、牧師や副牧師をはじめ、他のメンバーたちを友人と母に紹介し、母は別の方たちとも楽しそうに話すことができ、やがてお開きになりました。

教会を後にした私たちは自宅に帰り、お茶を飲んで一休み。
ダイニングのテーブルで、母の前に私が、母の隣にパートナーが座りました。
その時、何を話したかは忘れてしまいました。
いずれにしても、いつものように母が自分の趣味について話し続けていたのではないでしょうか。

そうしてお茶を飲んでいるうちに、私の気持ちが次第に重くなっていきました。
そして、ふと顔を上げました。
「え?!こんな顔をしていたの?」
母の顔があまりにも醜悪に見え、驚きました。

サタンが乗り移ったのかというくらい、醜い、恐ろしい顔でした。
怒っているわけではなく、楽しそうに話をしている母の顔が、そう見えたのです。
もはや顔を上げて母の顔を見ることができませんでした。

終始うつむき、話も途切れがちな私の様子に、母も気づいたのか、
「そろそろ帰るね」
と言って、立ち上がりました。
私が疲れていると思ったのか、それとも何か感じ取ったのか。
それはわかりませんでした。

その日、母を教会に招いたことに、不思議なほど何の抵抗もなかったのに、突如として、訪れたこの瞬間はいったい何だったのか。
その後、自分の中で問いかけ、また、パートナーと幾度も話しました。

それからしばらくの後、親戚の法事を巡って母と電話で口論になりました。
風邪気味の時に、法事と食事会に出席するかどうかという、一般的には些細な問題がきっかけでした。

その翌週、母が突然、自宅に押しかけてきました。
風邪をひいた私たちを心配して、来てしまったということでした。

こうして書くと、よくあるような、心配性だけれどもいい母親のようですが、残念ながら、そうは感じられない理由がありました。
以来、母とは距離を置いています。

こういったこと自体は、これまでに何十回、何百回と繰り返してきたことでした。
ただ、今回は、私自身が今までと違った方向に歩んでいるようにも感じられます。

教会の女性だけの聖書勉強会でも、このことをシェアしました。
誰もが多かれ少なかれ親子の関係に悩みはあるようで、いくつもの示唆をいただきました。

そうして1か月ほどを過ごしてきました。
母の感情に巻き込まれ、疲弊しないよう、距離を取ろうとしてきた1か月でした。

ところが、今朝、突如として、母のことが気の毒で可哀想で仕方がないという感情が湧き上がってきました。
私が母に合わせてあげれば、母は幸せでいられる。
でも、合わせてあげることに苦痛や息苦しさを感じてきました。
今朝、私は、またそうしようとしはじめたのです。

礼拝から帰った午後。
心が整っているはずなのに、強く苛立っている。
何かが間違っているのかもしれない。
葛藤のなか、よき道を問い続けているところです。


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