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なぜ呉は、もう一度「大和」を造ったのか:気骨の街篇

先日、はじめて呉へ行ってきた。

横須賀、佐世保に続いて、私にとって3つ目の旧海軍鎮守府の街である。

残るは舞鶴。
なので、まだ四港制覇したわけではないことを最初に断っておく(笑)。

そんな状態で呉へ行って、最初に抱いた印象は、
「思っていたより、派手じゃない」
だった。

横須賀と佐世保は、海上自衛隊と米海軍が隣接する街でもある。
ハンバーガーやカレーなどの食文化も相まって、「海軍さんの街」という印象がある。

一方、呉地方総監部周辺で隣接施設として挙げられているのは海上自衛隊の施設群。

その違いもあるのだろうか。
横須賀や佐世保で感じた、現在進行形の「軍港!」という派手さとは少し違う。

呉はもっと静かだった。
でも、歩けば歩くほど思う。
この街には、別のものがものすごい密度で残っている。

…「記憶」である。


「てつのくじら」と「大和」が並んでいる

呉駅から海側へ歩くと、まず度肝を抜かれる。

実物の退役潜水艦「あきしお」の巨大な船体がそのまま展示されており、
なかも見学可能(写真撮影はNG)

潜水艦がいる。

海上自衛隊呉史料館、通称「てつのくじら館」。

実際に海上自衛隊で使われていた潜水艦「あきしお」が、巨大な黒い船体をさらして陸上に鎮座している。

そして、そのすぐそばに大和ミュージアムがある。

出典:https://tabetainjya.com/archives/cat_15/post_8286/

……なんで?
素朴に、そう思った。

片や、戦後の海上自衛隊。
片や、旧日本海軍を象徴する戦艦「大和」。

しかも、大和について考えれば考えるほど、もうひとつ疑問が湧いてくる。

なぜ、これほどまでに「大和」なのだろう。

世界最大級の戦艦として建造されながら、その巨大な主砲を存分に活用する機会はほとんどないまま、1945年4月7日、沖縄へ向かう海上特攻作戦の途中で沈没した。

「大和」という名前が持つ巨大さに比べれば、その戦果は決して華々しいものではない。

なのに、呉では巨大な博物館の主役になっている。

しかも館内の中心には、全長26.3メートルにもなる1/10の大和まで造られている。

なぜなんだろう。

その疑問を抱えたまま福岡へ帰り、久しぶりに映画『男たちの大和/YAMATO』を観直した。


大和は、「強かった日本」の映画ではなかった

2005年公開の『男たちの大和/YAMATO』。

以前にも観た記憶はあるのだけど、20年経った今観ると、まったく違って見えた。

若い兵士たち。
家族。
恋人。
上官と部下。
そして、自分たちが生きて帰れないかもしれないことを知りながら、沖縄へ向かっていく兵士たち。

改めて観て思った。

これは、大和の強さを描いた映画ではない。
確かに大和は当時世界最大の、物凄い技術の結晶だった。
この船があれば、勝てると思っていた兵士は多かった。

しかし、この映画で描かれている大和の「記憶」は、そこではない気がする。

むしろ、
「なぜ、これほどのものを造った国が敗れたのか」
という映画なのかもしれない。

その象徴のように感じたのが、臼淵磐大尉のセリフだった。

映画の中で臼淵大尉は、日本が敗れること、その敗北を通して初めて日本が目覚め、そこから新しい日本が生まれるのではないか、という趣旨の言葉を語る。

いずれは死ぬ者同士が殴り合ってどうする。
日本は”進歩”ということを軽んじてきた。
進歩よりも精神主義を重んじてきた。
しかし進歩のない者は決して勝たない。
歴史がそれを証明している。
幕末、薩英戦争で負けた薩摩、馬関戦争で破れた長州はその後、攘夷鎖国を捨てて、ヨーロッパから新式の武器を輸入し幕府を倒した。
敗れて目覚める、それ以外に日本が救われる道はない。
今、目覚めずして、いつ救われる。
俺たちは日本が新しく生まれ変わるために、その先駆けとして散る。
まさに本望じゃないか。

今回、ここが妙に残った。

大和を「無敵の戦艦」として神格化するのではない。

大和が沈んだという事実まで含めて、
その先に何を残すのか。

映画が言いたかったことのひとつは、そこだったのではないかと思った。

すると、現地で抱いた疑問も少し違って見えてくる。
大和は、戦果が大きかったから残されているわけではないのかもしれない。
むしろ、これほど巨大なものを造り、これほど多くの人が乗り、そして沈んだ。

その事実そのものを、後世が考え続けるために残されているのではないか。


呉で何度も見た「山本造船」

もうひとつ、呉を歩いていて妙に気になった名前があった。

山本造船。
この「山本造船」という文字を、街のあちこちで目にした。

大和ミュージアムの隣の敷地に展示されている
「潜水調査船しんかい」
これも山本造船によるもの。

造船の街だから、造船会社があること自体は不思議ではない。

でも、帰ってから大和ミュージアムについて調べていて、
「あれ?」
となった。

あっちでもこっちでも、山本造船の文字を見るのだ。
そう、以前に書いた「ゲシュタルト・シフト」(笑)。

そして、大和ミュージアムにある1/10大和を造った山本造船が、映画でも協力していた。

そして、ここから調べ始めたら止まらなくなった。


本物の大和は、もう造れない

戦艦大和は1941年、呉海軍工廠で竣工した。

しかし終戦時、旧日本海軍に関する多くの資料が処分され、大和についても完全な形で設計資料が残ったわけではない。

それでも呉は、大和ミュージアムの建設にあたって、
10分の1の大和を造ろう
と考えた。
当時の呉市長が、観光需要など様々なことを考えて、反対派を押し切って決断したらしい。気骨!

模型メーカーが作る展示模型ではない。
実際に船を造る人たちが造る。

山本造船の記録を見ると、その工程は「模型製作」という言葉から想像するものとはずいぶん違う。
ちなみに、あまりの計画にどこの造船会社も及び腰だったなか、当時の社長は、父である会長にすら相談せずに契約してしまったそう。気骨2!

https://www.yamamotozousen.jp/hiwa

そして2004年2月1日。
関係者が見守る中、小笠原臣也・当時の呉市長が「大和」と命名。

ロープが切られると、1/10大和は、船台を滑って本当に進水した。
実際、進水式だけでなく、普通に海を泳げる本物の船らしい。気骨3!

その後、台船に載せられ、まだ建設中だった大和ミュージアムへ運ばれた。

いや。
模型やないやん。
ガチで船やん。


「製作」ではなく「建造」

この工程を見ているうちに、言葉を変えたくなった。

1/10大和は、
「製作された」
というより、
「建造された」
のだと思う。

そして、それを造ったのが、かつて大和そのものを生んだ造船の街・呉の人たちだった。
ここが、たまらなく面白い。

本物の大和は海底に沈んでいる。
当時の人たちも、年々少なくなっていく。
資料だって、すべてが残っているわけではない。

それでも、
「もう一度、大和を造る」。
もちろん1/10ではある。

けれど、その行為自体が、呉という街の歴史を次の世代へ渡す巨大な装置になった。


造っているうちに、意味が変わった

そして山本造船の「大和建造秘話」を読んで、さらに印象が変わった。

建造に携わった人たちにとっても、最初から何か崇高な使命感に燃えた仕事だったわけではなかったらしい。

山本造船は、当初は苦労の多い仕事だったと振り返っている。

しかし、テレビ取材で元乗組員や遺族と接したことをきっかけに、現場の意識が変わったという。
生きて帰ったことへの複雑な思いを抱え続けていた元乗組員。
亡くなった人たちへの思い。
そうしたものに触れるうち、
「この人たちのために何かをしたい」
という気持ちが芽生えていったという。

そして1/10大和が、当時を生きた人々の人生観や思いを知るきっかけになれば、と。

ここまで読んで、ようやく最初の疑問に戻った。


なぜ、呉は「大和」を残したのか

大和は、大戦果を挙げた戦艦ではない。

むしろ、その最期まで含めれば、日本という国が戦争の末にたどり着いた場所を象徴する船でもある。

だからこそなのかもしれない。

残すべきなのは、
「大和はすごかった」
という物語だけではない。

なぜ造ったのか。
誰が造ったのか。
誰が乗ったのか。
なぜ沈んだのか。
そのとき人々は何を考えたのか。
そして、その歴史を知った私たちは、これからどう生きるのか。

それを考える材料として、大和は残されている。

そう考えると、大和ミュージアムとてつのくじら館が隣り合っている風景も、少し違って見えてきた。

戦前の海軍と、戦後の海上自衛隊。
断絶しているようで、同じ海と、同じ造船の街の上に存在している。

呉には、その「前」と「後」が並んでいる。


そして、2005年

1/10大和が進水したのは、2004年2月。
翌2005年4月23日、大和ミュージアムが開館した。

そして同じ2005年12月には、映画『男たちの大和/YAMATO』が公開される。

大和ミュージアムは2025年に開館20周年を迎え、1/10大和もリニューアルに伴う大規模な整備を受け、今年4月23日にリニューアルオープンしたばかり。

20年前、呉では「大和をどう残すか」という巨大なプロジェクトが動いていた。
そして同じ年、日本中の映画館では『男たちの大和』が上映されていた。

戦後60年の節目だったことが大きいのだと思うけど、いろんな人の想いがここに集結したのだろうと思うと感慨深い。

という想いを、20年後に私が感じることができるのは、当時の人たちの想いがあるからに他ならない。

呉を歩き、
「なんでこんなに大和なんだろう?」
と思い、
映画を観直し、
現地で見かけた造船会社の名前を検索したことで、ようやく一本につながった。

アレイからすこじまで見た夕日と潜水艦


歴史は、残そうとした人が残している

最近、歴史の現場へ行くたびに思う。

私たちが「歴史」と呼んでいるものは、勝手に残ったものばかりではない。

どこかで誰かが、
残そう。
伝えよう。
もう一度、形にしよう。
と思ったから、今ここにあるものも多い。

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Podcast「チノアソビ」では語れなかったことをつらつらと。リベラル・アーツを中心に置くことを意識しつつも、政治・経済・その他時事ニュー…

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