「映画として薄い」は正しい批判か——超かぐや姫!が問いかける音楽映画のかたち
Filmarksの評価は3.8。SNSでは絶賛が溢れていたのに、観終わった後に「あれ?」という感覚が残ったという声も少なくない。超かぐや姫!に向けられる「ストーリーが薄い」「キャラクターが監督の言いたいセリフを喋るだけ」という批判は、果たして正しいのか。
この問いに答えるには、まず「何を基準に映画を評価するか」という前提を整理する必要がある。
ストーリーの薄さは、欠陥なのか
批判の核心は明快だ。人物の内面が掘り下げられず、ドラマの必然性が弱い。イベント的な見せ場がつながっているだけで、映画としての骨格がない——そういう指摘である。
これは嘘ではない。物語の起伏という点では、たしかに本作は淡白だ。
ただし、山下清悟監督がNARUTOや呪術廻戦のOPで培ってきたのは、短い時間に感情を叩き込む映像語法だ。彼が長編映画に持ち込もうとしたのも、おそらく同じ方法論だろう。ライブシーンの圧倒的な没入感、ryo・kz・40mPら豪華ボカロP陣の楽曲が画面と溶け合う瞬間——そこに全エネルギーが注がれている。
物語を削ったのではなく、体験を選んだ、という読み方ができる。
「体験型」は映画の言い訳になるか
問題はここからだ。「体験重視だから物語が薄くていい」という論理は、どこまで成立するのか。
コンサート映画やライブフィルムであれば、物語の薄さは批判の対象にならない。しかし超かぐや姫!はキャラクター、声優、ドラマを持つ劇場アニメの形式を採用している。その形式を選んだ以上、鑑賞者がドラマを期待するのは自然な反応だ。
形式と内実のあいだにギャップがある、というのが批判の本質だと思う。「音楽体験映画です」と最初から提示されていれば、観客の受け取り方はまったく変わっていたはずだ。Netflix独占配信からの劇場公開という異例の経路も、SNSでの過剰な期待値形成を招き、そのギャップを拡大させた面がある。
ただ、それは映画の質の問題というより、届け方の問題ではないか。
100万人動員・20億円突破という数字は、「体験を売る」戦略が機能した証拠でもある。IMDb 7.1という評価も、海外観客がこの映画を純粋な視聴体験として受け取った結果だろう。
批判を受け取りながら、立場を持つ
「映画として薄い」という批判は、的外れではない。しかし、その批判が暗黙の前提にしている「映画とはドラマを持つべきもの」という規範自体を、本作は問い返している。
私が気になるのは、ライブシーンで確かに何かが届いた、という事実だ。音楽と映像が同期する瞬間に生じる感情は、物語から生まれたものではなかった。それでも何かが動いた。その経験を「薄い」という言葉で片づけることに、少し抵抗がある。
一方で、キャラクターたちが最後まで人として立ち上がってこなかった感覚も、正直に残っている。どちらの批評も正当だ。ただ、私は「体験として観た上で物語の薄さを悔やむ」という両方の感触を持ちながら、この映画を過小評価したくはない。
音楽映画というジャンルの可能性を、本作はまだ途中の形で示した。それで十分かどうかは、次の作品が答えを出すだろう。
関連書籍
蓮實重彦『映画への不実なる誘い』(新潮社) — 日本を代表する映画批評家による論集。「映画とは何か」という問いを持つことで、本作の「体験型」設計を批評する際の基準が変わる。
柴那典『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版) — ボカロ文化の誕生と受容を論じた一冊。超かぐや姫!が照準を合わせた観客層の文化的背景がここで理解できる。
宇野常寛『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎) — ゼロ年代以降のアニメ・マンガ・サブカルチャーを論じた評論。音楽体験型コンテンツが支持される時代背景を考えるうえで参照点になる。
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