ヴァンゲリスのCS-80が世界を変えた——『ブレードランナー』音楽から始まったシンセウェイブの系譜
『ブレードランナー』の音楽について語るとき、多くのレビューは「美しい」「印象的」程度の言葉で済ませてしまう。だがヴァンゲリスがYamaha CS-80シンセサイザーで本作のために作り上げた音響世界は、映画音楽史の転換点であり、後の数十年にわたるシンセサイザー音楽の出発点でもある。サイバーパンクという視覚的ジャンルを音響的に完成させた仕事を、もう少し丁寧に聴く価値がある。
Yamaha CS-80という楽器
ヴァンゲリスが本作で多用したのは、Yamaha CS-80というポリフォニック・シンセサイザーだ。1977年に発売され、当時最高峰の表現力を持つアナログシンセとされていた。
CS-80の特徴は、ポリフォニック・アフタータッチである。鍵盤を押した後の圧力で、音色をリアルタイムに変化させられる。これは弦楽器のヴィブラートや管楽器のダイナミクスに近い表現を、電子音で可能にした。
ヴァンゲリスはこの楽器を熟知していた。彼は本作以前から CS-80 を主軸にした作曲を続けており、『炎のランナー』(1981)のメインテーマも同じ楽器で作られている。CS-80 はヴァンゲリスの「楽器」であり、彼の音楽的アイデンティティと不可分だった。
「Tears in Rain」のテーマが響くとき
本作のサウンドトラックの中で最も有名なのは、ラストのロイ・バッティの独白に重なる「Tears in Rain」のテーマだろう。
このテーマは複雑なメロディを持たない。長く伸びる和音、静かに揺れるアルペジオ、ほとんど無音に近い静謐さ——これらが幾重にも重なって雨の中の死を見送る音響を作る。
注目すべきは、この音楽が「悲しみ」を直接表現していないことだ。ロイの独白に呼応する「感情を高める」音楽ではなく、彼の独白が起きている「空間」を提示する音楽である。観客は音楽によって泣かされるのではなく、音楽が作る空間に身を浸して、自分で感情を見つける。
これは映画音楽の伝統的な機能(感情の補強)から離れた、新しい使い方だった。
サウンドトラックの未発表問題
本作のサウンドトラックには、長く奇妙な歴史がある。1982年の公開時、正式なサウンドトラック・アルバムは発売されなかった。1989年に「カバー版」(ニュー・アメリカン・オーケストラ演奏)が発売されたが、これは映画とは別物だった。
ヴァンゲリス本人の音源によるサウンドトラックが正式に発売されたのは、1994年。映画公開から12年後である。さらに完全版は2007年のファイナル・カット版に合わせて25周年記念盤として発売された。
この遅延の背後には、契約と権利関係の複雑な問題があった。ヴァンゲリスは本作の音楽に強い愛着を持ち、軽率に発売することを拒否した。その結果、ファンは12年間、映画そのものを観ながら音楽を聴くしかなかった。
この「アクセスの困難さ」が、本作の音楽を伝説化した側面もある。1980年代から90年代のサイバーパンクファンは、本作のサウンドトラックを録音した非公式テープを互いに交換していた。
シンセウェイブという子孫
2010年代以降、「シンセウェイブ」「アウトラン」と呼ばれるジャンルの音楽が世界的にブームになった。80年代のアナログシンセサイザーの音色を、現代の音楽家が再現するジャンルである。
このジャンルの直接の祖先が、ヴァンゲリスの本作の仕事である。Carpenter Brut・Kavinsky・Perturbator・Mitch Murder——これらのアーティストの音楽を聴くと、CS-80 の系譜の音色が随所に響いている。
2011年の『ドライヴ』(ニコラス・ウィンディング・レフン監督)のサウンドトラックも、シンセウェイブの隆盛の起点として挙げられる。だがその根本にあるのは、本作のヴァンゲリスである。映画音楽が一つの音楽ジャンル全体を生み出した稀な事例だ。
ヴェイパーウェイヴへの拡散
シンセウェイブからさらに派生して、2010年代に「ヴェイパーウェイヴ」というジャンルが生まれた。80年代の音楽をスローダウンして引き伸ばし、過剰なリバーブをかけて消費社会のノスタルジーを音響化したアートムーヴメントだ。
本作のサウンドトラックは、ヴェイパーウェイヴの素材として頻繁にサンプリングされる。「Memories of Green」「Wait For Me」などのトラックは、SoundCloudやBandcampで無数のリミックスを生んでいる。
ヴェイパーウェイヴが特徴的なのは、「未来感」の懐かしさを扱うことだ。80年代の人々が想像した未来——それは2020年代の現実とは違うが、その「来なかった未来」を懐かしむ感覚をジャンル化した。本作のサウンドトラックは、まさにその「来なかった未来」の音響だ。
サイバーパンクと音響の関係
サイバーパンクというジャンルは、視覚的な特徴(ネオン・雨・メガコーポレーション・改造身体)で定義されることが多い。だが本作以降、サイバーパンクには「音響的な特徴」も付随するようになった。
長く伸びるシンセのドローン・断片的なアルペジオ・サンプリングされた都市音・低音域の振動——これらが「サイバーパンク的な音響」として、無数のフォロワー作品で再現されてきた。『攻殻機動隊』(1995)の川井憲次、『マトリックス』(1999)のドン・デイヴィス、『ブレードランナー2049』(2017)のハンス・ジマー——どれも本作の音響の系譜の中にある。
ヴァンゲリスが作ったのは、単なる映画音楽ではない。ジャンルそのものの音響的定義だった。
CS-80 が消えた後の音楽
Yamaha CS-80 は1985年に生産終了している。現在では中古市場で1万ドル以上の値段がつく、伝説的な楽器になっている。
完全なCS-80 のサウンドを再現することは、現代の機材では完全には不可能とされる。アナログ回路の独特の特性・経年変化・個体差——これらが組み合わさってCS-80 ならではの音が生まれる。デジタルエミュレーターは近づけるが、完全には届かない。
これも本作のサウンドトラックを唯一無二にしている要因だ。誰も、ヴァンゲリスの音を完全には再現できない。彼の音楽は、特定の楽器・特定の時代・特定の人間の身体に固有のものとして、映画フィルムに焼き付けられている。
ヴァンゲリスの遺産
ヴァンゲリスは2022年5月に79歳で亡くなった。彼の追悼記事の多くは、本作の音楽を引用していた。
彼が遺したのは、楽曲の集合ではなく、音響の哲学だった。電子楽器で人間の感情を、しかも商業映画のフォーマットの中で表現できる——この可能性を彼は証明した。映画音楽は、オーケストラだけのものではなくなった。
本作のサウンドトラックを聴くたびに、私たちはヴァンゲリスの仕事に立ち会っている。「Tears in Rain」のテーマが流れるとき、消えていくのはロイ・バッティだけではない。ヴァンゲリスもまた、雨の中の涙のように、彼自身の生を音楽に託して消えていった。
そして、その音楽は消えていない。それが、映画と音楽の最も美しい関係である。
関連書籍
『BLADE RUNNER TRILOGY-25TH』 — ヴァンゲリス本人の音源による25周年記念盤。本文で触れた未発表トラックや、映画では聴けなかった音まで収めた決定版。
『シンセサイザー入門Rev.2 音作りが分かるシンセの教科書』 — CS-80のようなアナログシンセがどう音を作るのか、発音原理から実例まで辿れる教科書。ヴァンゲリスの音の正体に近づく一冊。
『電子音楽 in the (lost) world』 — シンセウェイブやヴェイパーウェイヴへ連なる電子音楽の系譜を膨大な資料で辿る労作。本作の音響の子孫たちを位置づける手引きになる。
