David Bowie『1.Outside』を読む:番外編 短いセグエと長い悪夢――The Leon Suites から見えてくる、もうひとつの『Outside』
これは『1.Outside』本編の読解から、少しだけ外れた番外編です。
ただし、外れることでしか見えてこないものがあります。
完成版アルバムの背後にあった The Leon Suites(レオン組曲) を見ていくと、『Outside』の短いセグエが、もともとはもっと長く、もっと混線した悪夢の切片だったことが見えてきます。
まず補足しておくと、この Leon(レオン) 素材は、『1.Outside』の外側にある単なる珍品ではありません。
1994年、ボウイはブライアン・イーノと再び組み、スイス・モントルーの Mountain Studios で新作の核となる録音を行いました。
そこではイーノの Oblique Strategies(斜めからの戦略) 的な発想や、演奏者が人物になりきる即興的な方法が用いられ、従来の「曲作り」よりも先に、世界観とキャラクターを立ち上げる方向へ制作が進みました。
既存の整理では、この時期の Leon recordings(レオン録音群) は、リーヴス・ガブレルスが “three-hour improvised opus”(3時間の即興傑作) と呼ぶほどの長大な素材群で、三つの suite、すなわち
“I Am with Name”(「名前とともにある」)、
“The Enemy Is Fragile”(「敵は脆い」)、
“Leon Takes Us Outside”(「レオンが私たちを外へ連れ出す」)
に分かれていたとされます。完成版『1.Outside』は、この未整理で非商業的な素材を分解し、短い セグエ(つなぎの小品) と独立曲へ再構成した結果として生まれました。
完成版『1.Outside』の強さは、まず語りの短さにあります。
登場人物であるBaby Grace、Algeria Touchshriek、Ramona A. Stone、Nathan Adler。彼らはみな、長くはしゃべりません。
ほんの数行の自己紹介や、不穏な断片だけを残して去っていく。たとえば Baby Grace は、
“Grace is my name”
――「グレイスが私の名前」
“something is going to be horrid”
――「何かひどいことが起こりそう」
とだけ告げる。Touchshriek なら、
“My name is Mr Touchshriek”
――「私の名はミスター・タッチシュリーク」
“He is a broken man. I am also a broken man.”
――「彼は壊れた男だ。私もまた壊れた男だ」
という短い名乗りだけで、その退廃と孤独が立ち上がります。
完成版のセグエは、説明ではなく印象のための最短距離です。しかも公式の19曲構成を見ると、それらは楽曲の流れを壊さない長さに厳密に整えられており、アルバムとしての推進力を保つよう配置されています。
完成版『1.Outside』の異様さは、長々と説明しないことによって成り立っているとも言えるでしょう。
ところがレオン組曲に耳を伸ばすと、この印象は根底から揺らぎます。
完成版で短く整理されていた語りが、レオン組曲ではずっと長く、ずっと壊れたまま続いているからです。
Baby Grace に対応する部分には、完成版に残った決め台詞だけでなく、
“it was that photo, a fading photograph”
――「あれはあの写真だった、色あせた写真」
“Ramona put me on these interest drugs”
――「ラモーナが私をこの“興味の薬”に乗せた」
“I can still hear some popular musics and aftershocks”
――「私はまだポップ・ミュージックや、その余震のようなものを聴ける」
といった、もっと長い揺れが含まれています。
ここで重要なのは、完成版が残したのは骨格であり、レオン組曲に残っているのは、その骨格のまわりにまとわりついていた時間だということです。
完成版では台詞が「情報」として機能しているのに対し、レオン組曲では同じ言葉が「持続」として存在している。そこでは語りは説明ではなく、壊れた意識の流出そのものになっています。
Touchshriek も、完成版とレオン組曲では見え方がまったく違います。
完成版では、彼は「奇妙で退廃した人物」として現れます。けれどレオン組曲の長い語りでは、彼は人物である以上に、病んだ街の声になっています。
“A small shop on the corner is really no more than a dark spiral with no end”
――「角の小さな店は、実のところ終わりのない暗い螺旋にすぎない」
“Some of the houses still have inhabitants in them. I’m not sure if they’re from this country or not.”
――「家のいくつかにはまだ住人がいる。だが、それがこの国の者かどうかはわからない」
完成版が残したのは、Touchshriek という人物の輪郭です。
しかしレオン組曲に残っているのは、その輪郭の背後にある湿った都市空間の厚みです。ここでは人物の壊れ方と街の腐敗が分離していません。
Touchshriek は、単なるキャラクターではなく、都市そのものが人の口を借りてしゃべっているような存在です。
Ramona A. Stone と Nathan Adler の扱いでは、この差はいっそう鮮明です。
完成版では、Ramona の語りと Adler の語りは、まだ奇妙ではあっても、ある程度は別々のものとして追うことができます。けれどレオン組曲では、その境界が驚くほど曖昧です。
たとえば、
“we creep together”
――「私たちはいっしょにはい回る」
“under a bloodless chrome sky”
――「血の気のないクロームの空の下で」
“we just have small friends”
――「私たちには“小さな友だち”しかいない」
といった、Ramona 側に属してよさそうなフレーズが反復される一方で、
“Ramona and Leon just spiral down”
――「ラモーナとレオンはただ螺旋を描いて落ちていく」
“who loses a name feels anxiety descending”
――「名を失う者には、不安が降りてくる」
“I’m getting ahead of myself”
――「少し話を先走りすぎている」
という、Adler 的な説明口調までが混ざっています。
完成版では人物が整理されている。
レオン組曲では、人物がまだ人物になりきっていない。
ここにあるのは、役割より先にある不安です。
完成版の『1.Outside』では、Ramona、I Am With Name、Nathan Adler という役割がそれぞれに与えられていますが、レオン組曲の段階では、それらはまだ同じ悪夢の中で混線した声の束にすぎません。
私はここに、完成版にはない不気味さがあると思います。『1.Outside』が人物を配置した作品だとすれば、レオン組曲は、人物がまだ成立する前の不安そのものを残した素材です。
Adler の語りにまとわりつく、1990年代的な神経症も、レオン組曲の方がむき出しです。
完成版にも、情報社会を思わせる語彙は残っていますが、レオン組曲ではそれがもっと長く、もっと執拗に続きます。
“super highway of information”
――「情報の超高速道路」
“packet sniffers”
――「パケット・スニファーたち」
“a sort of nerve internet”
――「いわば神経のインターネット」
こうした語彙は完成版では、Nathan Adler の奇妙な言い回しとして機能します。しかしレオン組曲では、それがだらだらと反復されるため、単なるキャラクター設定ではなく、ネットワーク、監視、認証、名前といった90年代の不安そのものに近づいていきます。
『1.Outside』が未来の犯罪譚として読まれがちなのに対して、レオン組曲はそれ以前に、同時代の情報社会への過敏な反応でもあったのです。
この視点から聞き直すと、“Leon Takes Us Outside”(「レオンが私たちを外へ連れ出す」) の意味も変わります。
完成版では、この曲はアルバムの短い前奏です。ところがレオン組曲では、そこにもっと長い命名の場面があります。
“Oxford Town”
――「オックスフォード・タウン」
の執拗な反復に加え、後半には、
“The very stars are calling. Your name is Leon. Leon is your name.”
――「星々がおまえを呼んでいる。おまえの名はレオンだ。レオン、それがおまえの名だ」
という、ほとんど儀式のような一節まで現れます。
完成版はこの長い語りの大半を捨て、冒頭音楽だけを入口として残しました。
つまりアルバム冒頭で私たちが聴いているのは、もともともっと大きな召喚の場面の残骸なのです。『1.Outside』では前奏に見えるものが、レオン組曲では人物と都市と世界を同時に立ち上げる儀式になっている。この差は非常に大きいと思います。
ここまで来ると、レオン組曲の方が豊かで、完成版は削りすぎたのではないか、と言いたくなるかもしれません。
けれど私は、そう単純には考えていません。『1.Outside』は、むしろ編集の勝利として見るべきでしょう。
レオン組曲は長すぎる。曖昧すぎる。語りすぎる。
そのままでは、一枚のアルバムとして流通させるにはあまりに未整理な素材でした。そこから人物の核だけを抜き出し、短いセグエに分け、独立した楽曲と並べ直したからこそ、『1.Outside』は作品として成立したのです。
そして、その編集の過程で、本編に入りきらなかった断片の一部は、“Nothing To Be Desired”(「何ひとつ望むべきものはない」) のように別の形で外へ出ました。これはレオン由来で公式に世に出た数少ない例であり、そのこと自体が、完成版『Outside』が「全部」ではなく「選抜版」だったことを物語っています。
だから、この話は本編ではなく、番外編に置くのがふさわしいのだと思います。
レオン組曲は完成版の代替物ではありません。完成版の外側にあり、完成版を逆照射するための素材です。あれを見て初めて、『1.Outside』の短いセグエが、もともとはもっと長い悪夢の切片だったことがわかる。
人物紹介に見えたものが、実は人物成立以前の混線だったことがわかる。そして、完成版に残ったのが「核」であり、削られたのが「時間」だったことも見えてきます。
言い換えれば、『1.Outside』は整理された悪夢です。
レオン組曲は、その整理の前にあった、長く、濁って、まだ終わっていない悪夢です。
完成版の強さは、その悪夢を一枚のアルバムにしたことにあります。
レオン組曲の魅力は、その悪夢がまだ悪夢のままで残っていることにあります。
ときに作品の本当の危うさは、完成した形よりも、その前段階の原液の方に強く宿ります。
レオン組曲は、まさにその原液なのだと思います。
出典
・David Bowie 公式ストア「1. Outside (The Nathan Adler Diaries: A Hyper Cycle) [2021 Remaster]」
・The Bowie Bible「1.Outside」「Leon Takes Us Outside」
・Wikipedia「Outside (David Bowie album)」
※ 本文中のレオン組曲の英語断片は、非公式流通音源の聴取と転記に基づくため、聞き取り上の揺れを含みます。
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