名残り
地方競馬のレースで右前足を骨折した白毛の馬は、コースの外れの芝生にその大きな体を横たえていた。観衆のどよめきと共に舞い降りてきたすずめに話しかける。
「おう、かわいいなぁお前。もう先が長くないようだから、俺の身の上話を聞いてくれよ」
「チュン、いいよ」
すずめは気軽に応えた。今は曇りだが、のちに雨が降りそうな空模様だ。
「ありがとうな。少しの間だから、許してくれ。馬として産まれてからの俺は人間の時とは打って変わって、周囲にチヤホヤされて幸せな馬生だった」
「チュン」
「前に人間だった頃は、それはもう苦労という苦労を舐め尽くした。運動神経だけは良かったが、あとはてんでだめでな。だが、若くして命を落としてからあの世で次に何に生まれ変わるかを選ぶ機会が与えられたんだ」
「ふーん、良かったね」
すずめは話をよく理解していない様子だったが、馬にとってはその軽薄さが心地良かった。
「まあな。俺は競馬が好きだったから、馬になりたいと思った。それで馬として生を受けてみるとこれが俺に合っていたようで、競走馬として調教されるようになった」
「チュンチュン」
「ある厩務員の兄ちゃんが良い人でな。人間の時でさえ、こんなにいい人に巡り会うことはできなかった。俺が他の馬にいじめられてストレスで暴れていた時、一日中寄り添って撫でてくれていた」
馬の脳裏には、走馬灯のように数々の記憶がよぎっては消えた。痛む足に顔をしかめながら、それでも話し続ける。
「客からは、『中に人間が入ってるんじゃないか』とか『前世人間だろ』なんて言われていた。あいつらも勘が鋭いんだな。俺がちょっとカメラの前で立ち止まったり、言葉を理解したように行動したりするとそういう言葉を投げかけてくるんだ」
「でも、君は馬だよ?」
すずめは能天気に言った。
「ははは、お前さんの目からはそう見えるだろう。しかし、人間は鋭い。俺がスタートに力を抜いて、ゴール付近で急加速する癖があるということもすぐに見抜く」
春の芝生は伸びきっていた。その柔らかい青草たちが、馬の弱った肉体をクッションのように支えている。
「あぁ、そろそろみたいだ」
獣医と数十人の職員がやってきて、既に張られていた黒い幕の中で永い眠りへの準備を始めた。白毛の馬と幕の黒色の対比が葬式の鯨幕のようで、その光景は職員の目にも悲しく映った。
すずめは馬のことを一心に見つめている。
「これからどうなるの?」
「もうお前さんともさよならさ。最期に長々と話を聞いてくれて、ありがとな」
何も知らないすずめでさえも忍びなくなってきて、ただそこに立ちすくんで様子を見ているほかなかった。
鎮静剤を手にした獣医が馬の元へ近づいてくる。
「君の名前は、なんて言うの?」
すずめが聞いた。
「俺はラヴヒューマン。全く、皮肉な名前だ」
「チュン、僕は名前なんかないよ。名前があるだけいいよ」
「そう、かもな……」
注射針が毛に覆われた桃色の皮膚を刺す。こわばっていた馬の表情は、次第にほぐれて柔らかくなっていった。鎮静剤が充分に効き始めると、次は麻酔を打った。職員の一人は、長い間目を覆っている。
「ラヴヒューマンさん、起きてよ」
すずめが必死に呼びかけたが、もう彼は反応を見せなかった。最期に致死薬が打たれ、数分も経つと馬の心臓はぴくりとも動かなくなった。
今しがた着いた馬運車の荷台から馬用のストレッチャーが運び出される。それに乗せられた馬は車の中へと納まった。
先程まで曇っていた空から大粒の雨が降り出し、場内はその雨とともに馬の最期を見送った。
すずめは雨宿りもせず、羽根を濡らしたまましばらく空を旋回してから、高く飛んだ。
