【投稿企画】父方のおばあちゃんとの思い出について書く
noteにはお題企画があるのだが、これまでお題から書いてこなかったので、お題をもとに書いてみようと思う。
「消したくない大切な思い出」というテーマがありましたので、それについて。
父方のおばあちゃん
父方の祖母、おばあちゃんは、自分が小学校2年生の時なので7歳の時に亡くなっている。
しかし、あれ7年しか一緒にいなかったんだったか…というくらい、一緒にいることが多かった。
7年といっても、物心をつくまでの記憶はなくついてからだと4〜5年になるだろう。
結婚してから5年以上たったが、結婚してからの5年がなんかはすごく短く感じるが、物心をついてから7歳までのおばあちゃんとすごした5年は長く感じている。
同じ5年そこそこのはずなのにね。
うちは弟とは5つ半離れているのだが、母は弟を身籠ったり弟の子育てがはじまったりして、自分の週3回の耳鼻科への病院通いは父方の祖母、そのおばあちゃんが連れて行ってくれていた。
幼稚園から帰ってきて、午後からふたりでバスに乗って同じ市内でもちょっと遠くの耳鼻科に行っていたので、週に3回出かけるのはちょっとした楽しみでもあった。
バスの中でフルーツ系の飴をくれたり、あとは「いちごみるく」の飴をくれたりした。
怒られた記憶はまったく無く、とにかく優しかった記憶しかない。
自宅近くのバス停と線路。
当時住んでいた自宅の前を線路が通っていた。
自宅から少し離れたところに北海道電力の火力発電所があり、そこに石炭を運ぶ汽車が通っていたのである。
こちらのブログに当時の石炭を運ぶ汽車の画像がのってます。
走っていた当時の写真でしょうか。懐かしいですね。
しかしまあ、小さい子というのは、電車やら汽車やらが好きなもので、自分はこの汽車が通るのをとても楽しみにしていて、踏切がなった音や汽車が通る音がしたら、近くまで見にいっていた。
そんなある日のこと
おばあちゃんと病院へ行き、帰ってきて自宅近くの最寄りのバス停でバスをおりる。
そうすると、なんか踏切の様子が違うのだ。
踏切の前に白い看板がたっていたのである。
「なんて読むの?」とおばあちゃんにきいたところ
「これは踏切廃止って読むんだよ」とおしえてくれました。
「踏切廃止って何?」
「踏切がなくなるんだよ」
「もう汽車はこなくなるの?」
きっちり一言一句覚えてないけど、こんな感じの会話があったかと思う。
とにかく「踏切廃止」という看板の読み方を教えてもらったのは、はっきりと記憶している。
漢字を読める年齢ではなかったしね。
1980年代後半当時に運炭列車の着駅となっていた港湾側では、留萌港南岸石炭桟橋への側線が1987年限りに運用停止となり、苫小牧港開発の運営した石炭埠頭臨港線での輸送も1988年11月21日に廃止されている。
これ以降にも稼行した炭坑の南大夕張、芦別、赤平、空知、太平洋釧路の内、日本貨物鉄道に関わる移出輸送の発駅となり得たのは、三井芦別鉄道の連絡した芦別と住友石炭鉱業専用線の接続した赤平の他には無い。それは既に道内向け輸送であり、着駅は豊沼の三井東圧肥料専用線と江別の北海道電力専用線であった。末期の両炭坑の出炭の大半は、この二箇所に引き取られていたのである。特に、江別の石炭火力発電所は政策的に国内炭の使用が義務づけられていた。
よって、前記の専用鉄道・専用線が最終移出を行った1989年3月23日当日、もしくは翌日に芦別と赤平を出発した列車が道内最後の運炭列車と云うことになるだろう。現在ならばセレモニーのひとつでも施行されそうなものだが、当時の北海道新聞のデータベイスにもそれらしき写真は見つからなかった。
たぶん、ここにある1989年3月23日の「道内最後の運炭列車」というのが、この日にあたるのだろうと思う。
日にちまでははっきり覚えてなかったけど、自分が7歳になりたての日付になるので、この日で間違いないだろう。
その踏切廃止の看板がたてられていた数日後には、踏切にはカバーがかけられ、遮断機の棒は撤去されていた。
ああ、こうしてなくなっていくこともあるんだなあ…というのをすごく実感する出来事であった。
おばあちゃんと病院へ。
ある日、おばあちゃんが病院へ行くという日があった。
近所の小さい内科に行くとか。
なんの病気かわからないけど
「いつも連れていってもらってるから…」
とついていくことにした。
とくについていって役にたつことも無いけど、今度は自分が連れて行く番だ、くらいに思っていたのではないかな。
ほどなくして、大きめの市立病院に入院した。
そしてもう1ヶ月くらいしたら亡くなってしまった。
まあ、泣いたね。
火葬場に行って、骨になってかえってきたところをみた時に、ああもう人の姿に戻ることはないんだと強く思ったのだろうね。
ああ、こうして人はなくなっていくんだというのをすごく実感する出来事であった。
おばあちゃんの息子である、自分の父親が…
同じ市内に住んでいたおじいちゃんの家に家族で毎日のように顔を出し、おばあちゃんの仏壇に手を合わせ、軽く話をして帰ってくる。
という日々がしばらく続いた。
このころでも、わりと懐かしい感じの曲のテープをもってきて車の中で流していたのをよく覚えている。当時入っていた曲のラインナップを思い出せるだけ思い出す
・精霊流し(グレープ)
・星空のディスタンス(THE ALFEE)
・メリーアン(THE ALFEE)
・あなた(小坂明子)
・恋におちて(小林明子)
など。
どちらかといえば、ちょっと暗めのひとむかし前の曲のテープを車の中でかけていたのである。
このあたりの曲をきくと、当時おばあちゃんが亡くなりおじいちゃんの家に通った日々を思い出す。
他にも何曲もあった気はするけどね。
それまでチェッカーズだの工藤静香だのそのへんが多かった記憶もあるのに、どういう心境の変化だったんだろうな…。
父が生きてるうちに、きいてみたいところはあるかもね。
父が亡くなったら、このあたりの曲をひっぱり出してしてきいたりするんだろうな…という気はなんとなくしている。
かれこれ。
おばあちゃんは自分か7歳の時に亡くなり、今40代もそこそこになりましたので、実に亡くなって35年はすぎようとしている。
もうそんなに前か…と思ってしまうな。
父が先日
「おふくろの年齢をこえてしまったなあ…」
という話をしていた。
自分は自分で、当時の父の年齢をこえるあたりまできてしまっているだろう。
35年もたつと、当時の記憶が多少薄れていく感覚もどこかしらにはある。実際父親の懐かしテープに入っていた曲はもっとあった気はするし。
ただ、記憶も薄れているかこれ以上思い出せていない。
ラジオとかでたまたま流れてきたとかで、曲をきけば「テープに入ってたやつだ」ってなるだろうけど。
こんな感じなので、このテーマをみた時に、さらに当時の記憶が薄れていく前に書けることは書いておきたいと思った次第であります。
家の近くを走っていた貨物列車や、おばあちゃん自身や、いつかはなくなってしまうんだ…というのをこのころに実感させられたなあ…という話でした。
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