寂しい
寂しい。
noteをしていたらやはり別れはある。
わかってはいるけど寂しい。
最近も初期からのフォロワーさんが体調を崩されてお休み中である。
80代だが、いろいろなことに挑戦されている方でいつも投稿を楽しみにしていた。
山吹みたいに体たらくではなく頻繁に更新されていた。
私なんかよりずっと柔軟で、新しいことにワクワクしている姿を見るのが好きだった。
「有料記事に挑戦しようと思って。参考に最初に買うならあなたから買いたいと思った。」と言ってくれたり、メンバーシップを始める時も招待してくださった。
私は本アカは度々、仕事の都合で更新が空くのだが戻ってきたら真っ先にコメントをくださる。
やめてほしくない、続けてほしいと思うのは私のエゴなのだろうか。
noteを続けていると、数字では見えない支えがあることに気付く。
コメントをくれる人、投稿はしなくなっても読みに来てくれる人。
当たり前だと思っていた存在が、ふと見えなくなると、その大きさを知る。
気付かないうちにnote活動の支えになってくれていた。
やめるやめる詐欺の構ってちゃんもたくさんいるけど、ある日突然静かにいなくなる方もいる。
私はnoteは結構ウィンウィンで当たり前だと思うし、ある程度自分が興味のある分野の記事を書いていたとしても「この人、私に全く興味ねぇな。」と思ったら恋愛と一緒で一瞬で興味をなくす。
フォロバされるまでは熱心にスキ押しして、フォロバしたら一気に来なくなる人もいるからフォロバにも慎重になるし(結局記事じゃなくてフォロバ目的なのね、っていう)
あと、最近ちょっとクスッとしてしまう(あるいは背筋が凍る)のが、こちらの動きを妙にトレースしてくる人の存在だ。
記事の着想元が被ったり、プロフィールを変更したらタイミングがなぜか奇跡のようにシンクロして同じようなことが書いてある……。記事のコメントが多すぎてコメント欄を閉じたら自分も閉じて(そんなにコメント数多くないのに)アイコンを自撮りにしたら自分も自撮りにする。
『いや、私そんなに影響力ある?』と、いっそ誇らしく思うべきなのか、それとも現代のホラーなのか?それとも精神的双子なの?(ごめん被る)
だけど「何故私がそれをするか」は全くわかってないようで、例えば私が記事を紹介するのは面白い記事を書かれるのに忙しくて頻回に更新できなかったり交流できなかったりでスキ数が全く伸びない人とか。
だけどその人は仲良しさんを紹介してる。仲良しさんって共通のフォロワーさんも多いし紹介しても誰得なんやろ、と思うのは私だけだろうか?
他人の褌で相撲を取るように、自分の軸を持たずに他人の後を追っかける人を見ていると、ネットの海には色んな生き様があるものだなと、ある種の冷めた目で見てしまう。真似は悪いことではないけど、何故そうするかがわからないと意味ないよね、と。
すみません、いろいろ愚痴ってしまった。
それでも支えになっている存在というのは確かにいて。
初期からの読み専の方たち。
もうnoteでは投稿していないのに読みに来てくれる人たち。
あと私はもともとのXのアカウントを使っていてnote用に作成したわけじゃないから、もとからいたXのフォロワーさんが読みに来てくれたり。
そういう方たちには確かに支えられている。
数や見栄えのための繋がりなんて、風が吹けば飛んでいくようなものだけど。
記事の奥にある温度まで感じ取ってくれる人との繋がりは、何年経っても消えない灯火みたいだなと思う。
SNSって、どうしてもフォロワー数とかビュー数みたいな『数字』に囚われがちになるけれど。本当に心が折れそうな時、ペンを握る力をくれるのは、いつだってそういう数字の向こう側にいる『顔の見える一人ひとりの存在』なんだよね。
ちょっと本当にnoteいやいや期みたいに最近なっていたけれど、もう少し頑張ってみようか。
画面の向こうで静かに読んでくれている人がいる。
そんな当たり前のようで当たり前じゃないことを、今日は改めて思い出した。
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