下町音楽夜話 Reloaded 528「サントリーホールのブラッド・メルドー」
■■■本稿は下町音楽夜話528「サントリーホールのブラッド・メルドー」(2012年8月4日)に加筆修正したものです■■■
レファレンス・ディスクというものがある。オーディオ装置の音質やセッティングを確認するために、聴きなれた盤や愛聴盤などを用いるのだが、できることなら、いろいろな楽器の音や高中低音のヴォーカルも試しておきたい。自分にとっては、カーリー・サイモンの「うつろな愛」、パット・メセニー・グループの「アー・ユー・ゴーイング・ウィズ・ミー?」、ドナルド・フェイゲンの「I.G.Y.」、最近ではノラ・ジョーンズの「カム・アウェイ・ウィズ・ミー」といったところを用いている。いずれも元々良い音で録音されている曲で、これがしっかり鳴らないとかバランス悪く再生されてしまうようでは、満足できないと判断する。CDプレイヤーやヘッドフォンなど、機器を買い換えるたびに同じもので試すため、はっきりと低音が細いだの高音がクリアだのと、自分のものさしが固まっていくのである。
一方で、コンサートホールに関しては、そう都合よくいろいろな会場で特定のミュージシャンが演奏してくれるわけもなく判断基準をとなるものさしが確立できるわけがない。しかし、リザウンドをはじめとした一般的な評価機軸である程度は音の良し悪しは分かるもので、音が良いと評判のホールも多く存在することとなる。当然ながら設計技術も進化しており、新しいホールで音が悪いという評判はあまり耳にしないが、たまに古いホールに行って、これほど酷かったかと呆れることはないわけではない。
そんな中で、絶大なる評価を得ていながら、未だにその音を体験していなかったホールがサントリーホールなのである。それほど多くのホールを訪れたわけではないが、一応何十箇所かは試している自分にとって、最後の砦になっていたホールなのである。そもそもがクラシック向けのホールであり、あまりチャンスがあるわけではないのだが、誰かしらジャズ・ミュージシャンなどでこのホールを使わないかとチェックはしていたのだ。そして、ようやく待ちに待ったチャンスが訪れたのである。ブラッド・メルドー・トリオの登場である。
どういうわけか、ブラッド・メルドーは自分にとってホールのリファレンス的な存在になっているのである。2006年9月の来日公演では、初台のオペラシティにある絶品ホール、タケミツ・メモリアルで、また2007年9月には大船にある鎌倉芸術館ではパット・メセニーとともに、「メセニー・メルドー」のステージを観ることができた。そしてこの度のサントリーホールのブラッド・メルドー・トリオである。トリオのメンバーに関しては、ベースのラリー・グレナディアは、毎度一緒に来日しているのに加え、2009年2月に奥方のレベッカ・マーティンに帯同して来日した際、コットンクラブで演奏したのも間近で観ており、さらに親しみ深いのである。実のところ、ラリー・グレナディアが観たくて行くと言っても過言ではないのである。ハッキリ言って、現在のジャズ・ベーシストでは最高、クリスチャン・マクブライド以上に評価している人間なのである。
さて、件のライヴだが、7月27日という猛暑の金曜日の夜、汗を拭き拭き駆けつけた。念願のサントリーホールである。アークヒルズの中でカレーをかっ込んでから、開演時間直前に乗り込んだ。ほぼ満席状態でも、かなり涼しい。座席位置はホールのど真ん中付近、ホールが持つリザウンドを知るには最高の場所と言える。非常に高い天井とウッディな壁面が、それでなくとも快適な空間を演出している。ただし小ぶりなシートはいただけない。お尻が痛くなってしまったし、互い違いになっていないため、目の前に前列の人の頭がきて、ステージが観づらい。正面の高い位置に据えられたパイプオルガンといい、諸々が素晴らしいわりに、シートだけが残念である。ピアノトリオではホールのリザウンドを完全に知ることは無理だが、余分な反響は見事なまでに押さえ込まれ、素性のよさは知れた。
それにしても、ブラッド・メルドーは面白い弾き方をする。斜に構え、身もだえするような格好で一切鍵盤とは正対しない。そこから弾き出される音粒は紛れもなくブラッド・メルドーの音で、まるでピアノが鼻づまりになったような、残響の拡散を嫌っているかのような音を繰り出してくる。ベースのラリー・グレナディアも、ドラムスのジェフ・バラードも、完璧にコントロールされているバックアップをみせるので、三者が異様なまでの高みで合奏を楽しんでいるのである。決して、ビル・エヴァンスのような三者対等のトリオではないが、三人全員の個々のレベルが異様に高い。
この日のブラッド・メルドーは、マッカートニー・トリビュートといった状態で、ビートルズの「アンド・アイ・ラヴ・ハー」をはじめ、やたらとポール・マッカートニーの曲を演奏してくれた。マッカートニーの最新作「キッシズ・オン・ザ・ボトム」からも、大好きな「マイ・ヴァレンタイン」をセレクトしているあたり、美しいメロディに対する感性が近いように思われ、嬉しくなってしまった。このアルバム、マッカートニーがジャズ・ヴォーカルの真似事をやっており、世間的には不評なようだが、随所に美しいメロディが散りばめられており、決して侮れない代物ではある。
さすがにポール・マッカートニーは20世紀を代表する最高のメロディ・メイカーだけに、枯れても心に突き刺さるようなメロディを提示してくる。そのメロディを、大きく崩しはせずに再構築する。あまり崩さないところが彼らのジャズ味の薄い原因だろうが、間違いなく、現在のジャズの最高の瞬間がそこにはあったと思う。あまりに最新作とは関係ない内容だったために呆けてしまったが、静かな興奮に酔いしれ、楽しめたことは事実である。
■2026年の独り言■
サントリーホールはどうもご縁が薄いホールです。ここでも書いておりますが、椅子が良くなかったですから、積極的にチケットを取りにいくような気持ちになれませんでした。…これ一回ですかね。
ブラッド・メルドーはその後も聴き続け、いまだに最も多く聴くアーティストの一人です。
