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【第99話】投資家が考える「人生いろいろ」ーー霧の中を歩むということ

終章 そして投資の本質は深淵に潜む

25.霧の中を歩むということ

光の暴力と影の正当性

「人生を楽しむべきだ」「悔いのない人生を」……。書店に平積みされた自己啓発書の帯や、SNSのタイムラインに溢れるこれらの言葉は、確かにその通りであり、論理的な異論を挟む余地などないように思えます。

しかし、その眩しいほどの正論を突きつけられたとき、私たちはふと、その裏側に潜む得体のしれない何かを感じ取ってしまいます。
それは、あたかも太陽が真上にあるときに最も濃い影が足元に落ちるかのような、逃れられない不安にも似ています。

私たちが感じるこの違和感の正体は、あるいは一種の強迫観念であり、無意識のうちに内面化された「幸福への義務」なのかもしれません。
現代社会において、幸福であること、充実していることは、あたかも市民の義務であるかのように語られます。

そこには、「楽しまなければならない」「後悔してはならない」という、見えない他者からの、あるいは社会全体からの押し付けめいた価値観や道徳観が潜んでいるように感じられるのです。

光が強ければ強いほど、その光の中に居続けられない自分への罪悪感は増していきます。享楽的な生き方を推奨する声は、裏を返せば「楽しまない生には価値がない」と断罪しているようにも聞こえるのです。
この無言の圧力が、私たちの呼吸を浅くし、日々の生活に微細な、しかし決定的な亀裂を生じさせているように思えます。


投げ出された生の不条理

人の生死、自己の存在、そして社会とのかかわりを深く見つめたとき、私たちは「そうとばかりも言ってられないことだってある」という厳然たる事実に直面します。

「人が生きる」ということは、自らの意志で選び取ったキャンバスに自由に絵を描くような能動的な営みばかりではありません。
私たちは望むと望まざるとにかかわらず、特定の時代、特定の場所、特定の状況の中に、唐突に投げ出された存在です。

病気、別れ、貧困、あるいは理由のない虚無感。そうした不可抗力に翻弄される中で、「楽しむ」という能動的な態度を維持することは、時に暴力的なまでの精神的負荷を伴います。

「そのようにできないことだって多いものだ」という不安定な感覚に襲われるのは、私たちが弱いからではなく、私たちが人間という、不確実で脆い存在であることの証左に他なりません。

常に前向きで、輝かしく、生産的であること。現代が求めるそのような人間像は、一面的な見方に過ぎません。
泥沼のような苦しみの中で、ただ息をして今日をやり過ごすことしかできない夜もあれば、後悔の念に焼かれながら、過去の瓦礫を呆然と見つめるしかない朝もあります。

しかし、その「楽しまない時間」「悔いる時間」こそが、人間の深みを作り、魂のひだを形成していくのではないでしょうか。光の当たらない地下室のような時間もまた、否定されるべきではない、生の一部なのです。


永遠に完結しない問い

いったいどう生きればいいのか――。

この問いに対し、人が人である以上、永遠にその正解は見つからないのでしょう。それは、私たちが怠惰だからではなく、問いそのものが、答えを拒絶する性質を持っているからかもしれません。

古今東西、数多の思想家たちがこの巨大な壁に挑み、考えつくしてきました。ある哲学者は、運命を受け入れ、心の平穏を保つことに生の意義を見出しました。
一方で別の哲学者は、不条理な世界の中で自ら意味を創出する自由の刑に処されていると説きました。
あるいは東洋の思想家たちは、執着を捨て、「空」なる境地に至ることこそが苦しみからの解放であると語りました。

しかし、歴史の地層に積み重なったこれらの叡智をもってしても、万人に共通する「よき人生」の定義はいまだ定まっていません。多種多様な思想が並立しているという事実そのものが、絶対的な正解が存在しないことを証明しています。

私たちは、地図を持たずに海原へ投げ出された小舟のようなものです。どの港を目指すべきか、あるいは漂流すること自体が目的なのか、誰も教えてはくれません。

結局のところ、私たちは何がいい人生なのかなど分からないまま、手探りで進み、考え、そして人生を終えていくのでしょう。未完のまま筆を置く画家の絵のように、私たちの生は常に途中であり、断片的であり、解釈不能なものです。

しかし、その「分からなさ」こそが、機械やAIとは異なる、人間特有の尊厳の源泉であるようにも思えるのです。正解がないからこそ、私たちは迷うことが許され、その迷いの中に独自の色彩を宿すことができるのです。


霧の中を歩むということ

「人生を楽しむべき」「悔いのない人生を」。これらの言葉を否定する必要はありません。それはそれで一つの美しい理想であり、晴れた日にはその指針に従って歩くのも良いでしょう。

しかし、雨の日には雨の日の、嵐の夜には嵐の夜の生き方があります。無理に楽しもうとせず、後悔に身を委ね、ただ静かにその重みに耐えることもまた、一つの誠実な生のあり方です。

私たちは、解決されるべき「問題」として生きているのではありません。ただ経験されるべき「現象」として、ここに在るのです。

正解を探し求め、見つからないことに焦燥感を抱く必要など、どこにもないのかもしれません。
分からないまま歩き続け、霧の中でふと触れた誰かの手の温もりや、雲間から射す一瞬の光に心を震わせる。それだけのことで、十分すぎるほど劇的ではないでしょうか。

全ての問いが解かれる日は、永遠に来ないかもしれません。しかし、答えの出ない問いを抱き続け、その重みと共に歩んでいくその姿こそが、あるいは「生きる」ということの正体なのかもしれません。

私たちが抱えているその「割り切れなさ」や「違和感」を、無理に消し去ろうとせず、あるいはそっと傍らに置いておくとしたら…

目の前に広がる景色は、少し違った色を帯びて見えるかもしれません。


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